藤原師通長男
[[藤原忠実]]
1078年~1162年(84)
超長生きでした。
祖父も長寿で、82歳で天寿をまっとうした。ここまではよかった。。
忠実22歳のとき、父が37歳の働き盛りで急死してしまう。嫡男忠実は摂関を継承する身だが、父は「20年は摂関の仕事をしていきたい」と語っていたので、忠実もそのつもりでいたので、
まだ摂関の知識もない。
忠実は大臣にもなっておらず、
やはり摂関には任命されなかった。
一方、、
堀川天皇は自ら政務をとりたがっていたので、関白を置かなくても政務が回っていた。
白河上皇も息子に政務を任せて、
のんびり暮らしていた。
ところが不幸は重なる。
若き堀川天皇が崩御してしまう。
そして堀川天皇の第一皇子、
まだ4歳の鳥羽天皇が即位した。
自然に、嫌でも、白河上皇に権力が集中する事になり、のんびりしておれなくなる。
忠実は摂政の手前の「内覧」には任命されていたが、自ら判断を下すことができず、政治的未熟さをさらけだす。
致命的だったのは、白河上皇が、悪僧や檀家に対する取締りの不徹底を理由に、忠実の叔父・興福寺別当覚信を解任しようとした際に、忠実はこれをとりなそうとして、かえって白河上皇の怒りをかってしまい、政務関与を拒絶されてしまったのである。
こうして藤原家摂関政治は機能停止し、藤原北家の立場は弱まり、完全に白河上皇の院政に替わる。
白河上皇は、上皇直属警護役として北面武士を創設。武力で問題を解決させ、白河上皇の側近には、武士出身者を用いた。
寺の勢力も大きくなり、朝廷に強訴してくると、源氏や平氏の武士が武力で問題解決していく。
しかも、このような人事は藤原忠実も承諾していて、かつて天皇の決裁を左右した藤原北家は今はない。。