■藤原道長の長男

母は正室の源倫子


★藤原頼通

992年~1074年(82歳)

超長生き


■藤原道長の五男

母は正室の源倫子


(二男三男四男は源明子が年子で生んだ)


★藤原教通

996年~1075年(79歳)

超長生き



■藤原頼通

25歳で父から藤原氏長者と摂関を譲られてしまう。仕事に失敗するたびに公卿の前で父に罵倒され、一時期不始末により父から勘当処分を受けたりしながら、摂関という仕事を覚えていった。

そんな厳しい父も頼通35歳の時に死去。


後朱雀天皇が即位。

本来なら天皇即位前の東宮の頃から、娘を東宮妻にしておかなくてはならないのだが、この頃の頼通の子は男ばかりだった。


後朱雀天皇は、父道長の孫である。

父は天皇が東宮の頃、

六女・嬉子を妻にさせ、親仁を生み、

孫娘・禎子を妻にさせ、尊仁をうむ。

天皇が東宮の頃から、次の東宮は親仁と決定していた。


頼通に娘はいない。代々藤原家は天皇家と外戚関係を固め、父の代で栄華を極めたのに、早くも息子の私で途絶えるのか、、と頼通は悲惨な気持ちになる。

頼通は敦康親王の娘・原子を養女とし、天皇の妻にし、男の子が生まれてくることを期待したが、、

原子は女児を生んで死去。


他の兄弟二人も娘を天皇の妻にしたが、誰も子を生まなかった。

まさに天命としか言いようがない。


頼通は禎子の生んだ尊仁を冷遇した。

血縁として遠すぎるからだ。

自分は天皇の祖父になれないなら、

せめて

甥の親仁に、男が生まれたら、

次の次の東宮にしたい。

と気持ちを切り替えた。


頼通とそりが合わない異母弟・能信は

「尊仁を親仁の東宮にすると、一筆書いておいて下さい」と天皇に即す。

天皇は遺言を残し崩御した。


親仁は後冷泉天皇として即位。

尊仁は東宮となる。


頼通には、待ちに待った女の子、

寛子が生まれていた。

寛子を後冷泉天皇の妻にした。

しかし、、皇子は生まれなかった。


藤原頼通

終わった


父の別荘を平等院に改修すると

1067年関白を辞退(75歳)

天皇の祖父になることを待っていたら、この年まで弟に関白を譲ることができなかった。


■藤原教通

弟・教通が関白に。(71歳)


1068年、後冷泉天皇崩御

頼通と教通に冷遇されていた、

尊仁が後三条天皇として即位。


後三条天皇と藤原家とは直接血縁関係はないからか、意欲的に政務を行い、国家財政改革として、

頼通の規定外の荘園を没収した。

だが在位4年で譲位、翌年崩御。


1074年、頼通死去

1075年、弟・教通死去