光孝天皇はすべてのわが子を皇族から一般人に落とした。皇位継承争いを避けるためである。その一人「源定省(さだみ)」は、藤原基経に請われ、皇族に返り咲き宇多天皇として即位した。

光孝天皇は亡くなる直前、基経に「定省をわが子のように接して下さい」と遺命していたのだが、口約束は破られた。


定省は宇多天皇として即位し、

父の先例どおり政務を基経に委ねる。委ねるには口約束だけではダメだと教えられ、マニュアルに従い左大弁・橘広相(ひろみ))に文書を発案執筆させた。

「万機(全ての政務)はすべて太政大臣に関白し云々、、」という文書ができあがる。


基経もマニュアルどおり一旦辞退する。


再び橘が文書を執筆。

「よろしく[阿衝(あこう)の任]をもって云々、、」


基経はマニュアル的な文章に興味はなく、任務にとりかかる予定だったが、文章博士が余計な口を挟んできた。「大臣、この阿衝の意味は飾りという意味ですよ!つまり能力はなくても勤まる飾りの職務だと言ってますよ~」


基経はこの文章博士一人の意見のみでなく、他の博士にも検証させたところ、文章博士と同意見であった。発案執筆者の橘広相は「言いがかりだ。三公(最高位の三職)で万機を執る者という意味だ」と反論するが、多勢に無勢だった。


基経は怒りまくり🔥「天皇がそのつもりなら、、」と政務を放棄した🔥


宇多天皇は事態を収拾するため、

「先の勅書は私の意に沿わない阿衝という文字があった」と訂正の勅書を出した。


だが、この勅書により、橘が天皇の意に沿わない勅書を書いたことになり、謀反となる。すると、、橘は流罪、、たいへんな問題となってしまった。


天皇は基経の娘を妻にすることで、基経との融和をはかり、橘を処分しないよう働きかけた。ようやく和解は成立した。

やれやれである。


その2年後に、藤原基経はこの世を去った。56歳でした。

彼は藤原家に正式に「関白」という、成人した天皇を代行する業務をもたらしたのでした。