藤原式家
藤原宇合 八男
藤原百川
732~779年
父が亡くなったのは5歳だったので、父の記憶はないに等しく、
父への思慕はなかった。
長兄広嗣の乱のとき8歳だったので、状況は知らず、流罪にならなかった。
父や兄のことでの悩みは皆無だった。
称徳天皇が即位してから、百川は暗躍する。百川は人に知られないよう影で策略を巡らすことが好きだった。
この称徳・道鏡政権での暗躍は、
必要不可欠な仕事であった。
影で和気清麻呂を動かし、道鏡の皇位継承を阻止し、表で称徳天皇と協調した。
道鏡の皇位継承を邪魔されたことで、怒った称徳天皇は、和気清麻呂を流罪にしたが、百川は和気清麻呂のために密かに仕送りをさせた。
百川はゲームをプレイするように、
暗躍仕事を楽しんでいた。
称徳天皇崩御後の後継者会議では、
天武系推しの吉備真備ら
天智系推しの藤原家ら
に分かれて争った。
百川は暗躍した❗
称徳天皇の遺言を偽造したのだ。
天智系の光仁天皇の即位に成功した。
皇太子は皇后井上内親王(聖武天皇娘)の生んだ他戸親王だった。
百川は暗躍した❗
皇后が呪詛で天皇を殺害しようとし、天皇の姉は殺害したとして、皇后を廃され、連座し皇太子も廃され、最後は二人とも同じ日に死去する。
死因は不明である。
新しく皇太子になったのは、高野新笠
夫人の子の山部王(桓武天皇)である。
私はこの暗躍目的がわからんのよねー
暗躍したいがために、暗躍したのか
それともたんに井上内親王が嫌いだったか
私はこの件に関しては、百川が暗躍した事実はなく、井上内親王は本当に呪詛していたんじゃないかと思っている。
779年桓武天皇の即位を見ることなく死去した。享年48