嵯峨天皇の後継は、平城上皇嫡男だったが「薬子の変」の後に廃された。

代わりに後継となったのは平城上皇と嵯峨天皇の弟である淳和天皇だ。

平城、嵯峨、淳和は3兄弟だった。


だが、淳和天皇はたいへんな心配性だったので皇位継承なんか望んでいなかった。皇位継承の争いが恐ろしいからだ。なので我が子を後継にすることなく、嵯峨上皇の子を後継にした。これで後継者争いに巻き込まれる危険はなくなった、、はずだった。

淳和天皇は天皇職を10年努めて譲位し、仁明天皇が即位した。


ところが仁明天皇は後継に、淳和上皇の子である恒貞親王を任命してしまう。仁明天皇も淳和に負けず劣らず心配性だったか?

皇位の譲り合いでなく、押し付けあいである。

淳和上皇は不安を抱えたなか崩御した。


その2年後に嵯峨上皇も病に伏すと、春宮坊(皇太子家政機関)の伴健岑と、その親友である橘逸勢が、皇太子の身に危険が迫っていると察し東国へ移すことにしようかと、平城の子である阿保親王に相談。しかし阿保親王は仁明天皇側に密告した。


7月15日嵯峨天皇崩御すると、仁明天皇は、伴、橘、その一味を逮捕。皇太子は直ちに辞表を仁明天皇に奉るが、いったん慰留される、、、

23日、藤原良相が兵を率いて皇太子邸を包囲。出所している者を捕らえた。

皇太子慰留の目的は出所している者を捕らえるためだった。


仁明天皇は伴、橘らを謀反人と断じ、

恒貞親王は事件とは無関係としながらも、責任をとらせるため皇太子を廃し、春宮坊役人も多数処分を受けた。

春宮坊は反藤原氏ばかりの集まりだ。

すぐに仁明天皇の子を皇太子にしなかった理由は、反藤原氏を一掃することであった。恒貞親王を皇太子にすることで利用したのである。

そして藤原良房は大納言に昇進。

仁明天皇の子、通康親王は皇太子に。

通康親王の母は藤原良房の妹、藤原順子であった。


はじまった。

皇室に藤のつるが絡まりはじめた。