桓武天皇。

彼の主な仕事は新しい都の建設・整備と、4度の蝦夷征伐である。そのため民衆は労働や納税に苦しむことになるのだが、、


新しい都建設の原因は、奈良仏教寺院の僧侶が、道鏡のように政治に関与してくるのを嫌ったからである。


桓武天皇の皇太子は、弟の早良親王。

彼は11歳のとき出家。皇太子に立たされるまでは、東大寺にて指導的位地にいたが、桓武天皇即位後、父の強い勧めもあり、還俗し立太子する。


東大寺は早良親王が皇太子となっても、寺の大事は必ず早良親王に相談してから行っていた。


桓武天皇は奈良寺院からの影響力を

排除しようとしているさなか、弟が東大寺とつながっていることを、もどかしくかんじていた。


そんな中、長岡京造営監督の藤原種継が、造営監督中に矢で射られ翌日死亡するという暗殺事件発生。

事件首謀者は、事件前に病死していた大伴家持。彼は皇太子家政機関である春宮坊大夫であり、逮捕者には春宮坊宮人が複数いた。


桓武天皇は暗殺事件の背後に、奈良仏教寺院を見た。「奈良を捨てるな」と、遷都阻止を目的として藤原種継を暗殺したのである。と疑った。


早良親王は藤原種継暗殺事件に連坐したことで皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉。早良親王は無実を訴え絶食10数日。淡路国に配流途中に死亡。

785年の出来事である。


785年、最澄は18歳。東大寺戒壇で授戒し僧侶となった頃。

新しい仏教の幕開けだ!