■簡素な政治

古代政治とは主権者が、

[領土]と[人民]を治めるための政策で、有力豪族による合議制で行われ、

王は祭祀のみ行っていた。

政治政策は簡素なものだ。


全国に王の直轄地を定め監理し、

米など物資や特産品などを治めさせ、職で奉仕させた。

豪族には豪族の直轄地があった。

ただそれだけのための政治だった。


■が、しかし、推古天皇の時代

中国大陸の随が中国を統一させ、周辺諸国は隋に遣使していたので、日本も国際政治に乗り出すことにした。

隋の攻撃対象にならないように。


以前のように暇ではなくなったので、合議制を止め、権力を集中させた。

聖徳太子を政権に参画させ、

大臣蘇我馬子との共治政治を行う。

推古天皇は祭祀のみ担当した。

神への祈りは大事なのです。


■失敗は成功のもと?

600年、日本から120年ぶりに隋へ遣使。だが失敗に終わった。

日本は外交儀礼を執り行えさせてもらえなかった。日本側が日本の政治を説明した際に「日本の政治は人民のための義理(世の道理)はないのか」と非難した。


日本の政治家は隋に外交儀礼を執り行ってもらえるように

★冠位十二階

★十七条憲法

★宮門出入りの際の礼制

などを制定。

607年小野妹子を隋に派遣した。

小野妹子は立派な冠をかぶり、日本の憲法を述べた後、隋王に国書を渡す。


■が、しかしその国書には「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子に致す」とあり、日本の王が天子と自称したことに対して隋王は不快の念を示した。

不快だったから隋王は日本を冊封しなかった。

冊封とは中国の臣下と認めること。


これは日本側の作戦で、独立国として中国と対等な国となるために、わざと不快にならせる国書を書いたのである。