■中臣氏の祖神(オヤガミ)
天児屋命(アメノコヤネノミコト)
神格(神さまの性質) 祝詞
別称 春日神
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天押雲命(アメノオシクモノミコト)
高天原から天津水を持ってきた
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中臣鎌足
彼は代々、祭祀、鎮魂、占いなど神さまのことを仕事にしている家系に生まれた。
■中臣鎌足
614年~669年
幼い頃は、中国の兵法書を読むことが好きで、遊びといえば戦争ごっこ。だけどやはり腕を磨いて強くなるよりも、頭を使って戦略を練ることが好き。
青年になるにつれて「自分が練った戦略で、勝利に導く戦争をしたい」という欲望が膨らんでいった。
640年、南淵請安が開いた塾に通うようになる。随の学問を教える塾だ。南淵は随へ32年間留学し、随の滅亡から唐の建国までの過程を見た人である。
鎌足がここで学びたいのは、国が滅びる原因、戦の仕方、新しい国の作り片方だった。
644年、鎌足は祭家業を継ぐことを断り別邸に退いた。自らがやりたいと思う仕事をやりたいからだ!中2病といわれようと!
鎌足は引きこもり、蘇我打倒の戦略を練った。
久しぶりに外へ出た。
目的は皇子探しである。
蘇我を実際に滅亡させるには、
それを命令する皇子が必要なのだ。
蹴鞠の会にて、以前から目星を着けていた中大兄王に近づく。すると王が鞠を蹴った瞬間、くつが脱げ飛んで鎌足の前に落ちた。鎌足それを拾って王にひざまずき手渡した。
中大兄王と鎌足の出会いの瞬間である。いくら鎌足でも自分の所に王のくつが飛んでくることは想定していなかった。
「神さまは私は戦略の味方だな」
645年、作戦実行
蘇我本家は滅んだ。
私の戦略の勝利だ!
中大兄王は天智天皇として即位
鎌足は政治戦略を練る仕事に邁進する。
鎌足死ぬ前日に、天皇から
紫冠を藤原の姓と共に賜った。
鎌足死ぬ前日に、藤原家の家運がある程度定まったのである。