■長屋王

676年~729年(53歳没)

父 高市皇子(天武天皇の子)

母 御名部皇女(天智天皇の子)


■長屋王の妻

★正妻 吉備内親王 [皇族腹]

草壁皇子と元明天皇の子

草壁→天武天皇と持統天皇の子


元明→天智天皇と蘇我姪娘の子

夫の皇太子草壁が若くして亡くなり、息子の文武天皇も若くして亡くなり、孫(聖武天皇)が成長するまでの中継ぎとして天皇となった


★妻 藤原長娥子 [藤原氏腹]

藤原不比等の子


★妻 石川夫人  [蘇我氏腹]

石川虫麻呂の子

(蘇我氏腹)


などなど

長屋王は嫡流に非常に近い存在で、

一定の皇位継承権を持つ。

何かの事情で今の皇統が、

他に移動した場合考えうる3通りの腹をすべて揃えていた。


皇族腹・藤原氏腹・蘇我氏腹


■長屋王の後ろ楯

妻1の母は元明天皇。

妻2の父は藤原不比等。

人事権を握っている二人の娘と婚姻していることもあり出世街道をまっしぐらに駆け抜けた。

何よりも政治手腕が抜群だったので、藤原不比等にかわいがられた。


720年、藤原不比等亡くなったことで1人の席が空いたので右大臣に昇進する。藤原不比等がいなくなったので、政権は皇親勢力が藤原氏を圧倒した。

724年、聖武天皇即位の祝いとして、左大臣に昇進する。

しかし、、後ろ楯である藤原不比等と元明天皇がこの世を去り、聖武天皇が即位してからは、潮目が少しずつ変わっていった。


■聖武天皇

父 文武天皇

母 藤原宮子(藤原不比等の子)

夫人 藤原光明子(藤原不比等の子)

未来は皇后


■天皇であってもダメ出しする

聖武天皇は母を「大夫人(だいぶにん)」と称するよう、勅によって命じた。これは聖武天皇一人ではなく、藤原一族の強い願いだった。


後日、長屋王ら議政官が天皇に奏上した。

「公式令には、大夫人という称号はなく、[皇太夫人]があるのみです。

勅によって[大夫人]を用いれば違法となります。

公式令によって[皇太夫人]を用いれば、違勅となります。

天皇の判断を仰ぎたい」と。


天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼び名は皇太夫人とし、口頭での発語は、

[大御祖(オホミヤ)]とする勅を出して事態を収拾した。


■長屋王は悪

長屋王は潜在的に藤原氏腹の聖武天皇を「自分の血筋よりも卑しい」と見下していた。

血筋で人間を判断する思いは、長屋王自身にさえ気づかない心の奥底にそびえ立つ核であった。

長屋王自身がよかれと思って行ったことは周囲を苛立たせた。特に藤原一族を苛立たせた。


「天皇に忠実にお仕えしている。だからこそ天皇の誤りは指摘する」と天皇の勅令の誤りを指摘した。だがそれはその本音は天皇への忠実さではなく、聖武天皇の血筋をバカにする思いによる行動だった。


無意識に聖武天皇を咎めるような、藤原氏をバカにするような、そのような言動をいつもしてしまっていた。

だが、、自分ではそれを気づいていない。


■聖武天皇と藤原氏の怒り爆発

729年、「長屋王は前年亡くなった聖武天皇の嫡男を呪い殺した。密かに国家を傾けようとしている」と朝廷に密告する者がいた。聖武天皇の許可を得た藤原氏率いる軍勢が長屋王の邸宅を包囲。舎人親王などの長屋王への糾問の後、長屋王、正妻の吉備親王、その子どもたちは自害した。強要か自ら死を選んだかはわからない。


藤原四人兄弟は、聖武天皇妃であった、藤原光明子を皇后に立て、藤原政権を樹立したが、737年藤原四人兄弟は四人揃って病死してしまった。

長屋王の怨念による祟りである。


長屋王はこのように祟る性格だったってこと。