能登半島は7世紀後半まで「こし」と呼ばれた。

能登半島は昔から日本海交通などの面で大切な地点だった。

実際能登半島は、陸上交通の上からは隔絶されたような地理的環境である。なので、自然と海上交通の便を求めたことは想像できる。

また能登半島は季節風や潮流の関係から東西の交通が比較的容易であった。

その日本海の潮流による海上交通によって、7世紀前半の能登半島は出雲との交流がさかんだったようで、現在も出雲の神さま「オオクニヌシノミコト」「スクナヒコナノミコト」を祀る神社が多い。


7世紀後半、天智.天武天皇大化政治時代に全国に国郡制がしかれ。「こし」は越前、越中、越後に分かれた。能登と加賀は越前となった。