森鴎外「阿部一族」


熊本城主-細川忠利の死の前に、近習18人が忠利から殉死を許可された。

当然殉死すべき立場にありながら、殉死を許可されなかった阿部弥一右衛門とその家族は破滅の道を歩まされた。


■許可を得た者たちの代表、長十郎の建前と本音が入り交じった心境

「長十郎は、忠利の病気が重なってからは、忠利への報謝の道は殉死だと固く信じるようになった。


しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の意思で、殉死しなくてはならないという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずの者だと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくさせられるといった心持ちが存在していた。

もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないといった思いもあった」


■殉死を許可した主君である忠利の

建前と本音が入り交じった心境


「忠利は、家臣18人を自分と一緒に死なせるのは残酷だとは十分感じていた。しかし彼らに殉死を許したのはやむを得なかった。


もし自分が殉死を許さず、彼らが生きながらえたら、どうであろう。。

世間では彼らを、死ぬべき時に死なぬ者とし、恩知らずとし、卑怯者と生涯見られるだろう。。

それだけなら彼らは忍んで生きていくだろうが

しかしその恩知らず、卑怯者を、それと知らずに先代の主人が使っていたのだと言う者があったら、彼らは忍び得ぬ事だろう。どんなに悔しい思いをするか。。

忠利は許すと言わずにはいられない。忠利は病苦にも増したせつなさで、許すと言った」


「老木の朽ち枯れるそばで、

若木は茂り栄えてゆく

嫡子光尚の周囲にいる若者から見れば、自分の任用している年よりらは、もういなくてもよいのである。邪魔になるのである。

自分は彼らを生きながらえさせて、光尚に奉公させたいと思うが、光尚に奉公する者はもう幾人もできていて、手ぐすね引いて待っている。

自分が任用した者はそれぞれの職分を尽くして来るうちに、人の恨みも買っていよう。少なくとも嫉みの的にはなっているに違いない。

だから、、殉死を許したのは慈悲であったかもしれない、、」