こんにちは
四国一ちいさなまちの
フリーランスヘルパー、
そしていっぺん死んでみるWS
エデンの森認定講師
高松ひとみです
改めて自己紹介させていただきます
長くなりますが、お読みいただけると嬉しいです
【誕生~幼少期】
1964年9月23日
高知県安芸郡田野町で誕生
身長50センチ
体重3000g
両親にとって初めての子どもで
目が大きいからと
と名付けられました
家は決して裕福でなく
どちらかと言えば貧乏でしたが
特に父方の祖父に可愛いがられ
天真爛漫にすくすくと育ちました
近所には同い年のいとこがいて
まだ立つこともできないときから
よく一緒に遊んできたようです
その彼女は今でも一番の親友
家族は父、母、私、妹の4人家族
母はやさしく
よく手作りのプリンやお饅頭
揚げたてのドーナッツをおやつに作ってくれました
父も優しい人だったけれど
お酒を飲むと人が変わったように
母に怒りをぶつけ
その様子が怖くて怖くて
お酒を飲む父に✖をつけていたように思います
休日の楽しみは
海に貝を採りに行ったり
川に泳ぎに行くことでした
海で泳げないので
浜辺でシーグラス
(この頃はビン石と呼んでました)を
拾ったりしていました
歌が好きで絵本が好きで
泣き虫で
運動は苦手で
走ったらいつもビリでした
楽器を鳴らすことも大好きで
買ってもらったオルガンを弾いたり
(ほんとはピアノが欲しかった)
木琴やカスタネットで
自由に演奏していました
【小学校時代】
元気で明るい女の子
まさにその言葉の通りに育ちました
ただやっぱり運動は苦手で
夏の水泳と秋の運動会は
正直なくなればいいのにと思っていたくらいw
小学4年生の時、
3歳違いの妹が入学してきて
先生から妹に知的障害があるようだということが
書かれた手紙を渡され
大きなショックを受けました
その翌年、5年生のときには
母が乳がんになり左の乳房を切除
悲しい・怖い
そんな気持ちを誰にも打ち明けることが出来ず
明るく元気なひとみちゃんでいることを
何としても続けなければと頑張った末
原因不明の咳が続き
病院受診すると精神的なものだと診断されました
またこの頃
空前のベルばらブームで
NHKの劇場中継で
月組のベルばらをたまたま見たところから
はまってしまい
お小遣いをためてLP盤を買ったり
宝塚関連の雑誌を購入したり
小さな切り抜きまで集め
しまいには自分で脚本を書いて
友達とベルばらごっこをしていました
画像お借りしました
そして学校では
元気で明るくて正義感の強いひとみちゃんは
学校集会の全校生徒の前でも
これは絶対間違ってると思ったことは
「はい!」と手を上げ
意見を述べるような女の子でした
【中学時代】
吹奏楽一筋!
中学校に入ったら何の迷いもなく
吹奏楽部に入部しクラリネットを吹くようになりました
まだできたばかりのクラブでしたが
熱心な先生やその教え子である先輩の指導のおかげもあり
2年生の時には四国大会で優勝!
3年生になると部長を務め
2年連続四国優勝を目指したけれど叶わず
悔しくて悲しいという気持ちを
これまでの中で一番感じたときかもしれません
私のクラリネット好きの熱意が通じて
母がビュッフェクランポン社のクラリネットを買ってくれ
とーっても嬉しかった
(当時20万円くらい、今は倍以上のお値段)
とにかく部活命!
思春期のこの時期
反抗期もなく
明けても暮れても吹奏楽な毎日でした
【高校時代】
地元からバスで2~30分ほどの公立高校へ進学
進学クラスに入ったものの
理数系がほんとダメで
おまけに暗記もダメで
成績は底を這っていました
大好きな吹奏楽部に入ったものの
なにか中学時代とは違って
夢中になり切れずにいました
すると母の体調に異変が!
背中から腰が痛いと言い始め
そのうちに寝たきりとなり
家での生活が困難になり
入院することになりました
母の入院を言い訳のひとつにして
入部から1年ほどで退部
その後は母校の中学校に度々行って
楽器を吹いたり
後輩を指導したりしていました
母の容態は一向に良くならず
ずーっと入院したまま
朝は父のお弁当を作ったりしてたので
クラスメートから
「お母さん」と呼ばれることも
3年生になって周りが進路を決めている中
私はどうしたらいいかわかりませんでした
進学コースなので
国立大学、公務員を目指す友達に囲まれて
私がその頃行きたかったのは
音楽大学だったけど
(クラリネットの個人レッスンも受けていた)
どうやらかなりお金がいるらしいことを知っていたので
貧乏で母が病気で入院してるのに
それは絶対無理だろう
と勝手にあきらめ
次に好きだった
英語を活かして
短大くらいは行きたい
そう思ったけど
仕事を次々と変える父を見て
やっぱり進学はできない
だってうちにお金はない
と誰にも相談せずにあきらめました
いつまでたっても進路を決めない私に
担任の先生が
大阪のバスガイドは?
今度、ある会社の方が学校に来てくれるけど
会ってみない?
と言ってくれ
それから「バスガイド」という職業に興味を持ち
大阪に行こうと決めました
ところが親戚から
「お母さんが病気で入院してるのに
それを捨ててまで大阪に行くのか!」
と言われ迷う私にでしたが
母に
あなたがやりたいと思うことはやってみなさい
そう背中を押され3月1日に卒業し
1週間ほど後には大阪での寮生活が始まりました
【社会人時代バスガイド~結婚式場司会】
大坂に出てカルチャーショックをうけました
時代はまさにバブル全盛期
高知の田舎ではテレビの向こうの世界と思ってたものが
目の前にあるのです
そして大阪特有のお笑いの文化に
なんとかついていこうと
まずは土佐弁を大阪弁に直すことが必要だと思いました
同期の友達になじめるよう
先輩にも可愛がってもらえるよう
今までと全く違った環境の中で頑張ってました
研修期間が終わりひとり立ちできるようになると
修学旅行のお仕事が多く
毎日、京都・奈良・大阪を案内することが
楽しくて楽しくて
休みよりも仕事を入れてほしいと思ったほど
バスの中での空間が
私にとってまるでライブ会場のようで
ガイドの私が説明したり
歌を歌ったり
問いかけると
向こうからの反応が返ってくる
そのやりとりが大好きでした
そして私の声を
聴きやすい
きれいな声
優しい声
とほめてもらい
そうなんだ
私の声はいい声らしいと
気づくことが出来たのは
当時のお客さんたちの言葉がきっかけでした
ところが入社して2年目を迎えようとした春
長いこと入院していた母が亡くなり
母の死を悲しんだ父が
さらに酒におぼれる生活を続け
アル中から肝硬変になり
翌年、この世を去りました
当時、養護学校の高等科卒業後
隣町の製糸会社で働いていた妹が
1人で暮らすことは難しいのではないかと思い
たった一人の家族である私が
妹の面倒を見なければならないと
大好きだったバスガイドを辞めて帰郷
地元でバスガイドの仕事をしても
泊りの仕事には行けないしと思うと
あきらめるしかなくて他の仕事を探しました
その後仕事を転々とし
大体3~4年で転職
きっかけはどれも
うちで働いてみない?
と声をかけてもらってというパターン
25〜29歳の時には
塗料屋さんで働いていて
この頃同僚の一個年下の子に
米米CLUBのライブビデオをかりて
そこからめっちゃハマりました
彼女はビデオで満足してたけれど
それだけで満足できない私は
彼女を誘って
大阪・福岡・東京の会場に
ライブを見に行って
それもシュークリームシュのコスプレまでしてw
青春を謳歌してました
その後
バスガイド時代の先輩が
結婚式場の司会をやってみないかと
誘ってくれて
マイクを持って話すというのを
もう一回やってみたくて29歳で転職
しかしここも4年ほど勤め
婚礼司会はかれこれ250件ほどさせていただき
もうこれならフリーでもできるかなと
退職することを決め
次に初めて自分で決めた次の仕事は
介護でした
【社会人 介護施設からヘルパーサ責、そして心屋】
結婚式の司会から施設の介護職員へ
華やかな非日常の仕事から
180度の転換でした
それでも高齢者が好きであるということ
そもそも人が好き、
人に興味があるということもあって
介護職員から施設の相談員に抜擢され
施設のなかだけでなく
同法人が運営し
隣の部屋に事業所を構えていた
在宅支援センターの職員とともに
自分の家で生活している高齢者宅を
一緒に訪問することも多くありました
今まで知らなかった在宅
住み慣れた自分の家が
そこに住む人にとって
どれだけ安らぎの場であるのかを知るきっかけになりました
たとえどれだけぼろ家でも
ゴミだらけであっても
隣近所との折り合いが悪くても
自分の家に勝るところはないと
誰もが思っていました
施設に入所している利用者を
自宅に再び帰すように調整することも
私の仕事だったのです
私生活では35歳で
だんなとの出会いがあり
あっという間に(約3か月で)結婚
そして
出産(次々と3人)
飲み会の多いだんなで
いわばワンオペ育児をする中で
子どもは可愛いけれど
いつもいっぱいいっぱいになってしまって
ときどきとてつもない絶望感や
劣等感、罪悪感に押しつぶされそうな自分がいました
もう、私なんて消えてなくなればいい
そのたび、そんな風に思ってました
そんな時、テレビの
ナイナイアンサーという番組で
心屋仁之助さんが
芸能人に魔法の言葉で
これまでの思い込みを解き放つ
カウンセリングをしていたのを見たのです
芸能人の心が緩むのとともに
涙が溢れる様子を
私もしゃくりあげながら号泣して見ていました
全て、そのもとは「お母さん」との関係にある
ということを知りました
そこから「こころ」のことを
もっと知りたいと思ったのですが
まだパソコンも持ってなかったし
アナログ専門で自分から調べることもなく
気になりながら動けてませんでした
仕事も2人目妊娠中に
退職することとなり
その後、お誘いがあって
新しく立ち上げるヘルパー事業所の
サービス提供責任者として働くことになりました
が、1年ほどで退職
もう2度と介護の仕事はしない!
そう思って辞めたので
その後、3人目出産しても
2年余りは専業主婦
これまで高校卒業後
仕事をせずに過ごしたことがほぼなかったので
私にとっては貴重な時間でした
司会の依頼があれば受け
選挙のウグイス嬢の依頼があればやってみて
あとは女性起業家を育てるための
パワーアップ女性塾というのに
2年ほど在籍してました
(すっかり忘れるところでした)
県東部の地元の人しか知らない場所の
ガイドマップを作ったり
それをもとにしたツアーを企画したりしました
その後
2度とすることはないと思っていた介護の仕事に
また知り合いから誘われて
前回と同じくヘルパー事業所のサ責を始めたのが
42歳のとき
今度は地元の医療法人内の事業所で
小1、年中、2歳の3人を育てながら
大きな組織に入ったことで
家事、子育て、仕事のプレッシャーが重なっていました
あの頃どうやって生活していたのか
思い出せないほど
忙しい毎日
そして「こころ」もどんどん疲弊していきました
そこで働き始めて5年が経った頃
交流分析2級を学び取得
翌年1級を取得
「こころ」の勉強をして
わかったつもりになっていました(恥)
仕事以外にも
県のヘルパー協の理事を依頼され
月に1度は理事会に出席
そのほかにも研修会を企画したり
本業もありながら
ヘルパー協も・・・
そして事業所の電話は
24時間365日私の持つ携帯に転送され
私のこの負担を軽くしてくれる人が誰もいないと嘆き
どんどんしんどくなってきていました
反面そのしんどさを悟られないように
人には笑顔で
いい人で
そうでなくちゃいけないと思っていました
法人内の
接遇委員会の委員長をしていた私は
挨拶もしない
患者に不機嫌な顔を見せる
態度が悪い
そんな職員を何とか変えたいと
思っていました
自分がしんどくてたまらないのに
いつも意識は外へ外へと向いて
見張ってばかりの私でした
【介護保険からフリーに、そしていっぺん死んでみるWSとの出会い】
いろんなやり方を学んで
資格取ったりしたけれど
自分はますますしんどくなるばかり
そしたら心屋仁之助さんが
前者・後者論というのを出してくれて
(知らない方はググってね)
初め、自分はどっちかわからなかったのです
いや、しばらくかなり迷いました
そんな人は後者らしいwww
そしてそれを受け入れたころ
当時高知に住んでいた
まっさきなみこちゃん(なみぃちゃん)が
毎日Facebookに
前者後者新聞というのを投稿されてて
後者のエピソードが笑えて笑えて
毎日、楽しみにしていました
その年心屋初級セミナーを
松山で受講
その後も高知で
カウンセリングを受けたり
お話会に行ったり
今まで買ったことのないものも
自分のために買ってみたり
いろんなやったことないことに挑戦
ブログを書き始めたことも
その中のひとつでした
そして頑張れば続けることもできたかもしれなかったけれど
サ責として働いてきた職場を辞める決心をしました
ただ、介護をすべてやめるということは出来なくて
介護保険で縛られることなく
フリーで1件のお家に訪問するというスタイルで
続けてきて
司会、ウグイス嬢も依頼があればするという形をとって来ました
長年、なんだかしんどいと思ってた部分は
圧倒的に自分と向き合うことを避けてきたからのようで
職場を辞めて時間がゆっくり流れるようになりました
合間があれば子供のころ好きだった
海でシーグラスを拾うことを楽しみに行く
そうしている時間は
自分ひとりで
自分に向き合う時間
仕事を手放したことで
自分のリズムや
そのときどきのしんどさも
敏感にわかるようになったので
今では海に行くだけでなく
自然と触れ合える
自然の中に身を置くことを
意識して取り入れています
ブログでつながったご縁もいくつかあって
その中の一つが
2018年秋四国88か所の歩き遍路していた
女医 上原暢子さんとの出会い
この時、まだこれからやろうとしていた
いっぺん死んでみるWSの
もとになるお話を聞いて
ぜひ受けたい!と心が震え
翌年2月高知に招致
ずっと外へと意識を向けて
人の目を気にしすぎて
家族の中でさえ
自分のことは後回しにして
答えを誰かに求めていた私
主語は誰?
私が私の人生を生きるのに
大事なことを学んだのは
このWSでした
思いついたらやってみて
あれ?違うぞと思えばやめてみて
そんな小さな挑戦を繰り返しながら
2019年6月26日
クリスタルアイズ開業
2020年初めには
社団法人エデンの森認定講師として
いっぺん死んでみるWSを伝える側に。
そして11月
フリーランスヘルパーとして
介護保険にしばられない
もっと自由な介護の選択肢の一つを
介護する側も
介護される側も選べるよう
これからのダイバーシティへと
その一歩を踏み出しました
どんなひとももっとつながって
みんながそれぞれの強みを生かして
生きていける優しい未来を目指して進むことが
私の使命と信じて
これからも頑張っていこうと思ってます
長い文章を
お読みいただきありがとうございました