博多の歴女 白駒妃登美 公式ブログ -135ページ目

福岡 集中豪雨

10年ぶりに、けた外れの豪雨に見舞われました。


車で10分ぐらいの地域に避難勧告が出たり、

土砂崩れで九州自動車道の太宰府⇔福岡が

通行止めになったり…、自然の力は本当に

すごいです!!


ご心配くださった皆さま、メールやお電話を

くださった方々…お心づかいがとても嬉しかった

です。


おかげさまで、わが家はまったく被害もなく、

家族全員元気です。


講演会が終わったあとで、よかったですドキドキ


今はまだイベントの残務処理に追われていますが、

もう少しで日常が戻るので、これからはブログも

マメに更新し、体もきちんと休めて、心をこめて、

丁寧に毎日を過ごしていきたいと思っています。


被害に遭われた方々にも、ハッピーな日常が

訪れますように…ラブラブ


ベストセラーの秘密 ♪

前回に引き続いて、わたしがひすいこたろうさんとともに2日間を

過ごした中で、強く心を打たれたことをお伝えしますニコニコ



わたしはいつも “神様目線” というのを意識していて、判断に

迷った時や行動に自信が持てない時、


「神様に愛されるのはどっちだろう」


って考えて、それを基準に判断したり、感情が爆発しそうな時に

ブレーキをかけたりします。



ひすいさんも、ものすごく “神様目線” を意識していらっしゃる

んですね。


ところが…

わたしとは視点がまるで違うんですビックリマーク



ひすいさんの視点は、

「いかにして神様から愛されるか」

ではなく、


「どうしたら神様を喜ばせることができるか」

なんです!!



ひすいさんは目の前の人を喜ばせることで、場の神様に喜んで

もらってるんです。



わたしはいつも神社に行くと、

「神様のお役に立てますように」

ってお願いするのですが、


ひすいさんはそれが日常になっているんでしょうね~ドキドキ



ひすいさんの本がベストセラーになる秘密が、ちょっぴり

わかったような気がしました音譜


 



MaZenda サマーセミナーを終えて…

この2ヶ月半の間、ひたすら “サマーセミナー” に向けて

毎日を過ごしてきたので、20日にセミナーが終了し、

ちょっとポッカリ心に穴が開いてしまいましたぐぅぐぅ


セミナーの前日から、ゲストのひすいさん&原さんと

ご一緒させていただき、一瞬一瞬が感動と感謝に

包まれて、本当に幸せな時間を過ごしました。


この宝物のような2日間で感じたことを、このブログを

読んでくださっている皆さんとシェアしたいと思います。



ひすいさんの一番の魅力は、いつも目の前の人の

ことを考えていること。

だから、その人のいい所がいっぱい見えてきて、

その人の才能に気づいてあげられる。


ひすいさんに出逢った日、吉田松陰の話で盛り上がり

…ほどなくして、「福沢諭吉のエピソードを教えて~」

というお電話をいただいて、ひすいさんとのメールの

やりとりが始まりました。


やがてひすいさんから

「ひとみちゃんの話を聞いて、歴史を、日本を、好きに

なる人が増えると思うよ~。もっともっとエピソードを

送ってね」


…という連絡をいただきました。

このひすいさんのひとことがなければ、わたしは誰かに

歴史の話をすることもなく、ただの歴史オタクで終わった

と思います。


自分が好きなことで人が喜んでくれると、「もう死んでも

いい~」 っていうくらい、幸せを感じるんですねクローバー


わたしが MaZenda を立ち上げたのは、


異性関係から得られる “しあわせ感” は何物にも

代えがたいから、その溢れる幸せ感をみんなに

伝えたい


というのが一番の理由でした。



でも、ひすいさんと出逢って、異性関係から得られる

幸せ感のほかに、自分の使命を果たしたり志を遂げて

いくことで得られる幸せ感があるということに気づきました。


そして、その2つのハッピーが、かけ離れて存在するのでなく、

繋がる時が “今” という時代なのだと思います。


先日の皆既日食が、それを象徴していたように思います。


太陽と月がぴったり重なり合うということは、

“ 陽と陰の融合 ” です晴れ満月



明治維新のときは、志を遂げるということと、異性関係から

幸せ感を得るということは、バランス感覚の上に成り立って

いたのだと思います。


だから、吉田松陰は、己のすべてを革命に捧げるために

一生、童貞をつらぬいたんですよね!


(なんとこれを読んだパートナーの Mikaki-MaZenda は、

 「当時は結婚相談室がなかったからねぇ」 ですって目


でも今は、陽と陰の融合する時代です!

きっと2つのハッピーは、“今” という時代で何の矛盾もなく

繋がるのです!!


この時代に生を享けたことに、心から感謝ですね音譜








理想の師弟関係 ♪

長州藩の兵学師範の家を継いだ吉田松陰は、嘉永3年(1850年)、

山鹿流軍学を学ぶために、肥前平戸藩を訪れます。


約2ヵ月の平戸滞在の間に、松陰は、儒学者で平戸藩家老でもあった

葉山佐内に惹かれ、紙屋という旅館に宿泊しながら、足繁く葉山家に

通い、数多くの書物を書き写したそうです。



佐内の手元には、江戸へ出府の際に入手したり、平戸という地の利で

得られた新知識の書物が数多く所蔵されていて、松陰が借りた本は
80冊にのぼると言われています。





私は、松陰と緒方洪庵が日本史の中で最高の教育者だと思って

いますが、その理由は、師を超えるような素晴らしい弟子たちを

数多く輩出しているからです。



なぜ松陰や洪庵の塾では、そのように素晴らしい弟子たちが

育つのでしょうか。



それは、おそらく、この二人が、弟子たちを尊敬していたからだと

思います。

確かに二人は、教育者として、弟子たちに多くのことを教え、与えて

きました。



でも、二人に共通するのは、けっして『弟子』を“上から目線”では

見ておらず、弟子たちの優れたところ(才能だけでなく人柄も含めて)

を尊敬している点にあると思います。



洪庵も、松陰も、生まれ持っての優しさがあるので、自然にそのような

態度で弟子に接していたのだと思いますが、松陰の場合は、彼自身の

性格に加え、この平戸で出逢った葉山佐内の影響も大きいと考えられます。



松陰が葉山邸に来て、佐内に教えを受けたり、書物を借りて旅館に

帰っていく…

佐内という人は、毎回松陰を玄関先まで出て見送るのですが、他藩から

来たこの若者の後ろ姿が完全に見えなくなるまで、その見送りは続けられた

そうです。





この時、松陰が受けた感動が、後に彼が弟子たちに接する時のベースに

なったのではないかと思います。



素晴らしい師につくということは、単に技術を学ぶことだけにとどまらず、

人格を含めて、その人が人生の中で培ってきたことのすべてに触れるという

ことなのではないでしょうか。



松陰が佐内と交流を持ったのはたった五十余日、松陰が萩の松下村塾で

弟子たちに講義したのも、わずか2年あまり。

たとえわずかな時間であったとしても、師の全人格・全人生に触れたから、

弟子は成長し続けたのでしょう。



師は弟子たちに何を与え、弟子は師から何を学ぼうとするのか、時間の

長さよりも密度が、教育の成果を分けるのではないかと思います。

















マゼンダ サマーセミナーに寄せて…

いよいよ20日の海の日は、


マゼンダ サマーセミナー音譜



ひすいこたろうさんと原伸介さんの、初の

コラボ講演会&トークショーを開催しますラブラブ!


すっごく楽しみでもあり、120人を超える方々が、

九州各地、遠くは名古屋からもいらっしゃると思うと、

胃が痛くなるくらい緊張していますが、


でもきっとだいじょうぶニコニコ


今回のサマーセミナー、すごく宇宙から応援されているのを

感じますドキドキ



今回のイベントで、参加してくださる皆さまに

一番何を伝えたいのか…


自然と想いがわき上がってくるのを待っていたのですが、

数日前に、突如として想いが溢れてきました!


その想いをひすいさんと原さんにメールでお伝えしたところ、

ひすいさんがメルマガに載せてくださったんです。


前回の4つのトマトの話に続いて、わたしが昨年、人生で

初めて大病を患って、手術と2ヵ月に及ぶ入院生活の中で

感じたことや気づいたことを書かせていただきました。


実は、トマトの話は、病気になる前に聞いたのですが、

病気のおかげで幸せに気づくことができ、新たな気づきの

おかげで、トマトの話を違った角度から解釈できるように

なったのです。


以前のわたしは、マイナスになる自分が許せず、必死で

プラスであり続けようとがんばっていました。


でも、手術を前に、不安と恐怖で逃げ出したい気持ちと闘い、

手術後は、今まで当たり前だと思っていた

「息ができること」

「歩けること」

「一人でトイレに行けること」

「今日もごはんが美味しく食べられること」


そんな日常のすべてが

『しあわせ』

なのだと気づきました。


そして、自分がちっぽけなことでくよくよした時、幸せだから

くよくよできるということに気づいたのです。


だって、腰がすごく痛い時、肩がこってることには気づかない

でしょ?

でも、腰の痛みが癒えたら、肩コリを自覚しますよね?


それと同じで、小さなことが気になったり、落ち込んだり、

頭にきたりするのは、「今が幸せ」という証拠なんですねクローバー



そのことに気づいてから、自分の弱さを認めて、愛せるように

なって、ありのままの自分を抱きしめてあげられるように

なりましたニコニコ



…という話を書かせていただいたのですが、

このメルマガが配信された翌朝、本当にたくさんの方から

メールやお電話をいただきました。


どのメールも本当に優しくてあたたかくて、読むたびに

泣いちゃいました汗


みんなきっと、以前のわたしのように、プラス思考で毎日

がんばっていて、苦しかったり疲れたりしてるんじゃないかな。



わたしね、小さい頃からずーっと考えてきました。


「人間はなんで生まれてくるんだろう?」って。



どんなに考えても、答えは一つなんです。


私たちは、幸せになるために生まれてきた!


そして、誰かを幸せにするために、今、生きている !!



サマーセミナーでは、そんなメッセージをお伝えできたら…

と思っていますラブラブ



マゼンダにかかわるすべての方に…あなたの存在そのものが、

幸せの源だということを知ってほしいのです 音譜


4つのトマトの話 ♪

これは、知人が、あるトマト農家の方から聞いた話です音譜






ある農家の方が、4つのグループに分けてトマトを栽培したそうです。



4つのグループすべてに、水や肥料などを同じように与え、

同じように手をかけて栽培しました。


ただ一つだけ違っていたのは、この農家の方がトマトに掛けた言葉です。



Aのトマトには、毎日、褒め言葉をシャワーのように浴びせました。

「おまえは赤くてかわいいね。」というふうに。




Bのトマトに対しては、毎日けなしまくりました。
「赤けりゃいいってもんじゃない!」というふうに。



Cのトマトには、褒め言葉も掛けず、けなしもせず、かわりに毎日

こんな言葉を掛けました。

「おまえは自由にしていいんだよ。

 赤くなりたきゃ赤くおなり。

 緑がよかったら、緑のままでいいんだよ。」




Dのトマトには、何も言葉を掛けず(無視)、ただ世話だけしてやりました。





さぁ、この中で一番美味しかったトマトは、どれでしょう?







逆に、一番まずかったトマトは…?



これは簡単ですよね、Dの無視されたトマトです。






じゃあ問題の一番おいしかったトマト…これ、めちゃめちゃ深いんですよドキドキ




褒められて育ったトマトは、ものすごく甘くて美味しいけど、
味に深みや広がりがなかったそうです。



「自由に」と育てられたトマトは、甘みはほどほど、

でも食べた瞬間にトマトの味がフワーっと口の中に広がり、

食べ終わったあとにもその心地よい余韻が残って、

なんともいえない深みが感じられたそうです。




さて、問題はけなされて育ったトマトです。



9割がた、ものすごくまずかったのですが、残りの1割ほどは、

ほかのどのトマトよりも美味しかったそうですよアップ




人間でも、褒められて伸びるタイプと、悔しさで成長するタイプが

いますから、1割のトマトは、「なにくそ~! 負けるもんか!! 」って、

がんばったのかもしれませんね。






この話を聞いたとき、子育て中のわたしは、
「その子のタイプを見極めて、その子に合った子育てをしよう」
と思ったのですが、でも、これもちょっと浅いかなぁ…と感じています。
「褒められて伸びる」とか、「悔しさで成長する」
なんて、すごく偏った見方だと思うんです。



同じ子でも、状況に応じて、心から褒め、心から叱り、

でもベースはその子のありのままを認めて受け入れる…

要は、バランスが大事だと思いますひらめき電球






最近、プラス思考に世の中が傾いてますが、褒めるのと同じように

叱ることも大事だし、無理にずっとプラスでいるんじゃなくて、

プラスとマイナスのバランスをとった上で、自然体でいることが

一番なんじゃないかと思いますニコニコ



「人を育てる」って、深いなぁ。


お金を残すことよりも、組織をつくることよりも、

「人を育てる」ことが最も価値あることだと思うから、

このトマトからの素敵なメッセージを、丁寧に読み解いて

いきたいですねビックリマーク




























































私的 『西郷 隆盛』 論

前回は、わたしが一番かわいいと思っている西郷 隆盛の

エピソードをお伝えしましたが、何人かの方から、


「なぜ “空” から西郷さんをイメージするの?」


という質問を受けたので、西郷さんに対するわたしのイメージ

を詳しくお話ししようと思います。



今から話すことは、一般的に言われている西郷さんの評価では

なく、あくまでもわたしの感性でとらえた西郷さんの魅力ですラブラブ



幕末 ・ 維新史を彩る志士たち…


それぞれがエネルギーに満ちあふれ、豊かな個性と多彩な

才能を発揮しています。

よくもまぁ、同時代に、これだけの人材が揃ったと思います。


『三国志』 にはあらゆる人間のタイプが出てくるので、

『三国志』 から人間学を学べると言われていますが、

『三国志』 は男の物語ですよね。

まさしく 「歴史は History ( his story =男の物語 ) である 」

というのが、三国志の歴史観だと思います。


それに比べ、 『源氏物語』 は、主人公が光源氏という男性で

ありながら、明らかに女性の物語です。

『源氏物語』 には、女性のあらゆるタイプが出てくるので、

「自分はこのタイプ」 

「あの人はどのタイプかな?」

なんて考えながら読んでいくと、実におもしろいです音譜


では、幕末 ・ 維新史のおもしろさは…?


ここには、あらゆるタイプの男性と、その男性たちを取り巻く

あらゆるタイプの女性が生き生きとそれぞれの人生を生きて

いて、『 三国志 』 と 『 源氏物語 』 を足した以上のおもしろさ

を感じますニコニコ



幕末の志士たちの才能を大きく分けると…


 ● 剣術が得意

 ● 頭がいい 

 ● 気が利く

 ● 調整能力がある

 ● 本質を掴むのが得意


ザッとこんな感じになると思います。


例えば、竜馬が特に優れていたのは、本質を掴む能力と剣術の

才能です。

このように、これらの才能が各人において複雑に絡み合って

それぞれの個性を形づくり、全体として絶妙なバランスになって

いるのは、まさに神の配剤と言えるのではないでしょうか。



ところが…


西郷さんだけは、これに当てはまらないと思うんです。

西郷さんって、これらすべての才能に関して、特別抜きんでていた

という形跡がないんですね。


じゃあ、なぜあれだけ人々から慕われ、あれだけの大仕事が

できたのか…?


それは、西郷さんが特別な才能を持っていなかったからだと

思います。


たぶん、西郷さんって、人のいい所ばかりが見える人だったんじゃ

ないかな。

だから、それに比べて自分はいかに能力が低いか…って、考えたと

思うんですね。


自分に取り立てた才能がないのを知っていたから、西郷さんは、

そんな自分が世の中の役に立つためには、私利私欲や損得勘定を

捨て去り、“ 自分 ” という器で “空” をつくるしかない…

と思ったんじゃないかと思います。



竜馬は、薩摩藩邸に初めて西郷さんを訪ねた時の感想として、

次のように勝海舟に告げています。


「西郷というやつは、わからぬやつでした。

釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、

大きく叩けば、大きく響く。

もし、バカなら大きなバカで、

利口なら大きな利口だろうと思います。

ただ、その鐘をつく撞木 (しゅもく) が小さかったのが残念でした。」


竜馬は、西郷さんを 「 釣り鐘 」 に、自分自身を 「 撞木 」 に例えたのです。



この竜馬の西郷評って、自分という粘土で器をつくり、自分以外のすべてを

空にしていた、西郷さんの生き方が表れているような気がします。



西郷さんの素晴らしさは、“ 空 ” をつくり、人を受け入れ、愛し、輝かせた

ところにあるのではないでしょうか。

私たち日本人が、西洋には存在しえない、東洋的なリーダー像を持てたのは、

西郷さんのおかげだと思います。



西郷 隆盛のかわいげ ♪

前回のブログに転載させていただいたひすいさんの


『空』


の話から、わたしがイメージしたのは、空海と西郷 隆盛です。



だから今回のブログに、西郷さんの話を書こうと思っていましたが…


なんとひすいさんのメルマガに、西郷さんのキュートすぎる

エピソードが出ていましたねニコニコ


このエピソードは、まがりなりにも女性であるわたくしの口から

ご紹介することが憚られるくらい、『キュートさ』 が度を超えちゃって

ますから、興味のある方は、


   http://archive.mag2.com/0000145862/index.html


こちらをお読みください音譜



ひすいさんがこのとっておきのエピソードで来るなら、

それに対抗して、わたしも一番好きな西郷さんの

エピソードをご紹介しますにひひ




 「雨は降る降る 人馬は濡れる

   

        越すに越されぬ田原坂」



これは、熊本民謡『田原坂』の一節です。


西南戦争における天王山ともいえる、田原坂の攻防戦。

それがどれほど激しいものであったか、この一節からも

伝わってきます。



17日間に及ぶ田原坂の攻防戦に敗れた薩軍は、南九州を転戦し、

負け続け、しだいに追い詰められていきます。

そして、延岡から故郷である鹿児島を目指すのですが、

政府軍の包囲を突破しようとして、“可愛岳(えのたけ)”の

山越えを強行します。


可愛岳は、九州百名山にも数えられる美しい山ですが、

標高727メートルの天嶮で、断崖絶壁、しかも

政府軍の不意をつくため闇夜の行軍…



足腰の強い剽悍な薩摩人も震え上がり、行軍は困難を極めた

そうです。

特に西郷さんはあの巨体ですから、駕籠から降りて急斜面を

よじ登るのは至難の業です。



誰の目にも敗戦は明らかで、ただ死に場所を得るための

絶望的な逃避行…




こんな状況下で、なんと西郷さんは、ものすごく色っぽい

素敵なジョークを飛ばすんです。




急斜面をよじ登りながら、



「よべ(夜這い)のようだ」


と言って周りを笑わせたそうです。





幕末維新史に燦然とその名を残す西郷さんには、

神様がクスッと微笑みたくなるような、なんともいえない

かわいげがあったんだと思いますラブラブ








空 ♪

今日のひすいさんのメルマガ、とっても素敵なんですドキドキ


すでに読まれた方も多いと思いますが、読んでいらっしゃらない方の

ために、ひすいさんのメルマガを転載させていただきますね。




「とおちゃん、なんで雨降るか知ってる?神様が空でオシッコしてんだよ。

オシッコしてない日が晴れ」

と、今朝、小学校1年の息子から教わったヒスイコタローです(^^



今日は「空」つながりで、「空」の話をさせてもらいますね。


「シアワセの取説」にも書きましたが、僕の一番好きな字は「空」です。



なぜ「空」が好きなのか?


僕は「空」こそ「志」(ココロザシ)の本質だと思ってるからです。







明治維新をやりとげた革命家たちはみな読書家だったわけですが

例外的に、めちゃめちゃ本を読んでいなかった男がひとりいまして、

その男の名を、坂本龍馬といいます。



でも、そんな龍馬が、例外的にこれだけは読みまくっていたというのが

「少年ジャンプ」

ではなく、「めぞん一刻!」

でもなく、「老子」です。




当時のサムライで「老子」ファンだったのは、きっと龍馬ぐらいな

もんでしょう。

龍馬は自身の号に「自然堂」とつけていたそうですが、これも老子の

影響です。




龍馬が愛した老子の教えに「空」という考え方があるのです。




例えば粘土を固めて作った器。

器の役割は水を入れることですよね。

つまり、器の価値は空(カラ)の部分にあるわけです。

粘土よりも、そこに作られた「がらあきの空間」にこそ意味があるのです。




「空」(カラ)の部分にこそ、価値がある!




そこなんですよね。




自分は「粘土」

自分以外が「空間」


自分という粘土で、どんな「空」を生み出すか?

それが人生の主題だと思うんです。





僕があなたの心の中に映し出す「空」

それが名言セラピーだと思ってやっています。

だからこそ、手はぬけないって思うんだ。




人はみんな、この宇宙に「空」(ソラ)を作リ出してるんです。





このメルマガを読んで、わたしは、ある歴史上の人物のことを

思い浮かべましたひらめき電球


それは…空海です音譜


ちなみに、私の好きな歴史上の人物 TOP3 は、島津 斉彬、福沢 諭吉、

そして空海ですラブラブ!



皆さんは、なぜ“空海”という名前なのか、ご存知ですか?



空海って、同時代の最澄とよく比較されますよね。


わたし、自ら「最も澄む」と名乗る人なんて、信用できないなぁ、

それに比べて、「空と海」という名前をつけるなんて、空海って素敵ラブラブ



なーんて思っていたのですが、実は空海の名前の由来は、そんな単純な
ものではなかったんです。



空(そら)って、本当は実在しないものですよね?


でも、海を見ると、実在しないはずの空が、まぎれもなくそこに

映っています。




空を映し出す海のように、

「自分をからっぽの器にして、すべてのものをそこに映し出し、包み込む」


というのが、空海の名前の由来だそうです。





ひすいさんのメルマガを読んで、空海が1200年のときを超えてよみがえった

ように感じて、胸がいっぱいになっちゃいましたニコニコ






































幕末のエネルギー

  『 泰平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず 』


これは、歴史の教科書に必ず登場する狂歌です。


上喜撰 (じょうきせん) とは、当時の高級な宇治茶 (玉露) の商品名のことで、

濃いお茶なので四杯も飲むと夜眠れなくなることと、ペリーが蒸気船である黒船他

計4船で来航したことをきっかけに、世の中が大騒ぎなったことを掛けたのです。


ちなみに…

 『 アメリカガのませにきたる上喜撰 たった四杯で夜も寝ラレズ 』


こちらは、萩市内の民家で発見された 『 燕都流言録 』 に載ってている狂歌で、

『 燕都流言録 』 は、吉田松陰の直筆と言われています。



いずれにしても…

1953年、ペリー来航 船


この事件をきっかけに、在野の志士がむらがり立ち、「攘夷か開国か」「尊王か佐幕か」

の議論が沸騰し、幕末の騒乱が始まるわけです。


実はこのペリー艦隊は、アメリカから太平洋を横断して日本に来たのではなく、

アメリカ東海岸から大西洋を横断し、アフリカ南端を回って、はるばるやって来ました。

なぜなら、太平洋上には、石炭補給地がないので、蒸気船では太平洋横断が

できなかったのです。

合衆国東海岸を出港したペリー艦隊が、大西洋のマディラ島、セントヘレナ島から

アフリカ南端のケープタウンを回り、セイロン (現在のスリランカ) 、シンガポール、

香港、上海、琉球 (現在の沖縄) 、小笠原諸島に寄港し、浦賀沖に碇泊したのは、

1853年7月8日のことでした。


黒船を初めて見た世界中の人々は、どの民族も腰を抜かすほど驚いたに

違いありません。


けれども、日本人だけは違っていました。


確かに、日本人も腰を抜かすほど驚き、前出の狂歌のように、国を挙げて蜂の巣を

つついたような大騒ぎになったことは事実です。


でも、日本人の中には、黒船を見て肝を潰しながら、潰しっぱなしでなく、

「 自分たちの手であれと同じものを造ってやろう 」

と思った人が、少なくとも3人はいたのですアップ


一人は、薩摩藩主 ・ 島津 斉彬、もう一人は肥前佐賀藩の鍋島 閑叟、そして

最後の一人は、伊予宇和島藩の伊達 宗城です。


薩摩も佐賀も、洋学がさかんで、殖産興業が進んでいたので、蒸気船を造るのに、

ほんのわずかながら下地がありました。


でも、宇和島は10万石の小藩、予算もなければ、洋学の施設や造船の設備など、

何もありません。


それでも、驚嘆すべきことに、ペリー艦隊の来航からたった3年で、相前後して

3藩とも国産の蒸気船を完成させました。


一番が薩摩、二番が佐賀、宇和島藩は三番目でしたが、宇和島湾に蒸気船が

浮かんだ時、藩主の伊達 宗城が無邪気に喜びを表して、

「 これで参勤交代するんだ 」

と言ったとかニコニコ


言っておきますが、江戸時代の日本は、200年以上も鎖国が続いていて、

大型船を建造することすら禁止されていたんです。


それが、黒船を見て肝を潰し、でも潰しただけでなく、自分たちの手で同じものを

造ろうとした…!!

そして見事に、3年後には真似して国産で造り上げた…ビックリマーク


こんな民族、世界中探しても、日本人のほかにいないんじゃないでしょうか。


この溢れるバイタリティーと、途方もない夢を実現してしまう技術力!!


このDNAが、私たちには受け継がれているんですね~ドキドキ


日本人が事なかれ主義に陥ったのなんて、つい最近のこと。

日本史を、日本文化を知ると、そこにはエネルギッシュな日本人たちが

躍動しています音譜