聞くまでもないと思いたいことなのだが、大事なことだからあえて質問をする。

 

超絶イケメン、あるいは超絶美少女という容姿に生まれるのと、

クソキモクリーチャーな容姿に生まれるのと、どっちがマシだろうか?

 

「モテたいわけじゃないけど自分の醜悪さで周囲を不快にさせたくない」

という僕でさえ、

できることならイケメンには生まれたかった。

 

というか自ら望んで醜く生まれたい人なんているわけがない。

 

・・・と、思いたい。

逆張りしたがる一部のサイコパス野郎が実在するのは悲しむべきことだろうけど。

 

 

 

 

だから極論の使い道なんてのは実にシンプルな話であって、

「どちらかといえばどっちがマシなのか?」を判別するのに使えばいいわけだ。

 

 

 

 

たとえばどこぞの

大学入試(2006年京都大学)、

「tan1°は有理数か?」

という問題は実に簡単だ。

 

普通に考えて、

有理数(分数で表記できる)だとすれば誰かが暗記自慢してそうなもんだから、

無理数じゃないのかなと推定できる。

 

そこでtan1°を有理数pと仮定して、

2倍角の公式を利用してtan2θ=と立式し変形していけば、

tan2°もtan4°もtan8°もtan16°もtan32°もtan64°も有理数であるはずだといえる。

 

しかし加法定理を用いるとtan(64°-4°)=tan60°も有理数になるはずだが、

実際には√3であり無理数であるため矛盾する。

だからtan1°は有理数であるという仮定がおかしいと判明し、無理数だといえる。

 

・・・たったこれだけのことがわからないのが受験生というもので、

なぜか語り継がれる良問扱いされている。

 

まあそもそも2のn乗に4と64があって、64ひく4が60になって、

60だったら三角関数の暗記知識の問題に帰着させられるぞと考案できるだけの、

算数レベルの教養と基本感覚(いわゆる才能・センス)が問われはするけれど。

 

「円周率が3.05より大きいことを証明せよ(2003年東京大学)」もそうだけど、

小学校の教科書に書いてあるレベルの話でしかないわけだからな。

(※円周率(円周の長さ)の求め方は小学校の教科書に必ず載っている)

 

 

 

 

ちなみに僕はどちらも普通に解けた側だから、

頭がいいかどうかという問題はさておき、

少なくともバカや無能ではないのだろうと推定できる。

 

※これも「極論の正しい使い方」ではある

 

 

 

 

まあ、それはいい。

 

大事なことは、

東大や京大の入試「ごとき」であれば、

「見当をつけてやってみる」という子供じみた能力があれば十分解けるってこと。

 

 

 

 

AかBかの二択があったとき、

ものすごいAである場合、ものすごいBである場合を考えて、

「いや、さすがにそれはないんじゃないか?」と見当をつけるために極論がある。

 

臆病と蛮勇であれば、勇敢なほうが好ましい。

 

貧困と富裕であれば、富裕なほうが好ましい。

 

「どちらかといえばどっちがマシだと思う?」

 

それが極論の使い道だ。

 

 

 

 

 

ペチャパイと巨乳なら、

まあボインでなかろうと谷間くらいはできたほうがいいだろうし?

 

粗チンとデカチン・巨根なら、

小さくて困ることはあるわけで、

そんならデカいほうがまだマシだといえる。

 

・・・おっと、安心したまえ。

チンコは勃起しても5cm以下なら生殖能力に問題アリ判定が出るから、

小さすぎることは実際問題として好ましくない

 

たとえペチャパイで母乳が出なくても乳母(うば、めのと)がいるし、

今なら粉ミルクだってあるわけだから、

ペチャパイ・貧乳にはそこまで致命的な問題がない。

 

まあ、女としてのプライドや美容・ファッションの問題はあるけど。

 

僕が知っている限り、

総じて女性はDカップくらいあると嬉しいようだ。

「谷間ができる、デカすぎない、間違ってもペチャパイではない」の三拍子だから。

 

 

 

 

いずれにせよ、

「全くない」よりは「ありすぎて困る」ほうが、だいたいの場合においてはマシだ。

 

背が低すぎると日常的な不便が大きいけれど、

背が高いぶんにはまだ日常的な不便は我慢すれば済む範囲ではある。

 

高いところに手が届かない問題は、

天井にアタマをぶつけないよう注意する問題と比較すれば、

発生頻度が比較できないレベルでダン違いだからな。

 

 

 

 

これは政治や経済にも同じことが言える。

 

貧富の格差が極大化することで、

一部の金持ちの言うことさえ聞いていれば世界を回しやすくなる反面で、

金持ち側が貧乏人を無視し続けるわけだから、潜在的な不満は大きくなる。

 

治安の悪化やモラル(やる気)の低下は、長い目で見れば国力の衰退を招く。

 

「資本主義は格差を是認するものだ!」という共産主義者の主張は、

しかし一党独裁国家ではない資本主義国家においては、

同時に民主主義、あるいは法治主義という制度が存在する現実を無視している。

 

最終的には、格差が極大化すれば暴力革命が起きるし、

それを止めることは絶対にできなくなっているわけだから、

どうやって暴力革命を防ぐのか、それだけが為政者の至上命令になる。

 

日本はそこに貧富ではなく世代間の格差が介在しているせいで、

話がだいぶややこしくなっているのだが・・・まあいい。

 

 

 

 

もし~でいいとするならば=もし~以外の全てを否定し排除してもいいならば

 

 

 

 

誰もそんなことは言ってない、って思うだろ?

 

でも極論ってのは、そうやって使うものなんだよ。

 

 

 

 

もし他人を殴って蹴って奪ってもいいなら?

 

もし他人をバカにしてイジメて誹謗中傷していいなら?

 

しかし自分が悪いことをして世間様から嫌われただけなのに、

その批判や反論を誹謗中傷といいかえて被害者しぐさをキメていたら?

 

 

 

 

極論というものは、

それが100か0かという極端な話をすることで、

自分は25なのか75なのかを再確認するためにあるものだ。

 

 

 

 

中立なんてありえない。

 

中庸や公平の実現なんて、人間ごときでは不可能だ。

 

なら非力ゆえに偏らざるを得ない我々人類は、どちらに偏るべきなのか?

 

 

 

 

極論は、自分の立ち位置を明確なものにしてくれる。

 

100か0かなら、50ではなく25なのか75なのかを教えてくれる。

 

自分が75だと思っているのなら、

62.5なのか87.5なのかを教えてくれる。

 

だいたい2回くらい極論を使えば、自分の立ち位置は見えてくるもんだ。

 

1/2から見て1/4なのか3/4なのか?

 

1/4から見て1/8なのか3/8なのか、

それとも3/4から見て5/8なのか7/8なのか?

 

 

 

納得いくまで、

あえて極端に考えたうえで、

自分がどちら側なのかを

冷静に吟味してみるがいい。

 

そしたら自分のやりたいことが見えてくるはずだ。

 

それが極論の、正しい使い方だ。