かこちゃんのブログ -2ページ目

かこちゃんのブログ

ブログの説明を入力します。

ずっとご無沙汰しています。

来年は明るい話題になることを信じて、上皇后・秋家の不都合な事実を隠すための言論統制は許せないので、今年最後に暴露します。

必ず事実が明らかになることを信じて!


12/5に敬宮さま成人祝賀で皇居に行って、高輪から帰りの敬宮さまを、特製の祝賀旗を購入したので旗を振って、乾門でお見送りしました。

高輪では警官が250名と公表し、乾門でも50~100名だったのに、マスゴミ発表は高輪100名とわざと少なく発表!いつものことです。

さらに、敬宮さまを30分待たせて上皇は「おめでとう!」上皇后はお付きの人に「早くよい人を見つけて嫁降して自由を謳歌するようにしなさい!」と言ったとか。


〈消される前に保存した「コメント」より〉

雅子さまは愛子さまのドレスを守るために12/1の食事会に欠席されたそうです。

写真撮影が12/5に延期されたのも、12/5に成人行事が全て終わって一安心されたからではないでしょうか。

雅子さまは以前海外の大切な場面で女官にシワくちゃの衣装を着せられ、しかも後ろにぴったりついてドレスを踏もうとしていたところ外人の男の人に注意された動画をみました。

その女官はその後美智子さん付きになり出世しました。美智子さんの指示だったのでしょう。

また12/4に紀子さんが取り巻きをつれて雅子さまの私室を見せろと押しかけたのも、何か細工をしようとしてのことかと思われます。

雅子さまは今でも大変な気苦労をされています。
悲惨な思いを二度とさせたくないと戦争体験を語り継ぐ人のことを批判する人がいるのに驚愕しました。

これでは戦争で亡くなられた方々は浮かばれません

平和ボケした日本人の劣化は激しく、戦場で何があったかを知って二度と戦争をしてはいけないと失敗から学んでいかなくてはならないと思います。


【NHKスペシャル「戦慄の記録  インパール」】


〈2017/08/18 半歩前へⅡ〉

【▼ウジがわき、1週間ほどで骨となった! NHK特番への衝撃は今も続いている。NHKスペシャル「戦慄の記録  インパール」】


 日本からはるか離れた外地。標高2000メートル級の山々が連なる険しい山中を、飢餓と風土病に苦しみながらはいつくばって先へ進もうとした。

 そこらをはいずるヘビもネズミもみんな食い尽し、飢えの中で次々、兵隊が死んでいった。見渡す限り前も後ろも延々と続く死体の山。
 
ウジがわき、1週間ほどで骨となった。白骨街道と言われた。生きるために死んだ兵隊の人肉を食った。生き地獄である。

 兵隊に「死んで来い。靖国に葬ってやる」と人を虫けらのように扱った作戦参謀や指揮官たちは、祖国、日本に逃げ帰り、戦後をのうのうと生き続けた。

 破格の軍人恩給を手にし、悠々自適の生涯を送った。こんな理不尽なことが実際にあったのだ。それが戦争である。戦争というものなのだ。

 日本人の中に、今も先の大戦を「正義の戦い」とうそぶき、戦争を美化する輩が絶えない。若者たちを再び、戦地へ駆り出そうとする者たちだ。自分たちの野望のために国民を犠牲にしようとする輩どもである。

 子や孫に伝えてほしい。戦争がいかに残酷なものか。戦争がどれほど悲惨なものか。戦争を知るアナタは、伝える責任がある。



〈ツイッターより〉

〔指揮官は真っさきに日本に帰って戦後を生き延び〕

〔この番組で、もう一つ知った事実が多数の自殺者がいたこと。自殺した兵士の死因は病死とされたとのこと。〕


相手の戦力や兵站を軽視した無謀な戦いで甚大な死傷者を出し、旧日本軍の体質を象徴的に示したとされる「インパール作戦」。「援蒋ルート」の遮断を主目的とし、ミャンマー(当時ビルマ)からイギリス軍の拠点があったインド北東部のインパールの攻略を目指した日本軍は、この作戦で歴史的敗北を喫した。餓死・戦病死した日本兵の死屍累々が並んだ道が「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨な戦いの実態はどのようなものだったのか。これまでインドとミャンマーの国境地帯は戦後長く未踏の地だったが、今回、両政府との長年の交渉の末に現地取材が可能となった。さらに、新たに見つかった一次資料や作戦を指揮した将官の肉声テープなどから「陸軍史上最悪」とされる作戦の全貌が浮かび上がってきた。数々のスクープ映像と新資料、証言からなる「インパール作戦」の全記録は、決して忘却してはならない悲劇の記憶を、未来へと継承していく。



〈コメントより〉

〔安倍や高須を同じ目にあわせてやりたいな。この世の地獄を糞ウヨに味合わせろ。
ウヨを白骨になるまで行軍させろ!二度とへらず口をたたかせるな。〕
長崎原爆平和祈念式典・92歳の被爆者代表【平和への違い】

ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

 当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我(けが)を負いました。

 被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似(みようみまね)で救護に当たりました。3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、2階3階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

 不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫(がれき)で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの繰り返しでした。大怪我をした父を時津(とぎつ)国民学校でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた! 私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。

 父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を含ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。

 今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

 今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。

 私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

2021年(令和3年)8月9日

 被爆者代表  岡 信子