もう一度【戦争仲代達矢と桂歌丸が語った戦争体験】 | かこちゃんのブログ

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2017年8月16日のブログを再掲します



戦争で儲けたい軍産複合体は、そのまま森友、加計疑獄やオリンピック利権・原発利権等に繋がっています。

逮捕された籠池夫妻や、逃げている加計理事長や政治家や官僚はコマに過ぎません。

多くの国民を犠牲にすることに良心の呵責はなく、自分は決して手を汚さないで裏でマスコミを使って操っている黒幕を暴かないと解決しません。

国民がもっと賢くならないと、悪人達のやりたい放題が続いてしまいます。


【仲代達矢と桂歌丸が語った戦争体験が話題!「戦争を知らない政治家が戦争に触れるな」】

http://lite-ra.com/2017/08/post-3384.html

〈2017.08.12 仲代達矢と桂歌丸が語った戦争体験 リテラ〉
 

今年で終戦から72年。実際に戦争を体験した世代が次々と鬼籍に入り、戦争の恐ろしさを語り継ぐ人がいなくなるのと入れ違うように、安倍首相をはじめとした極右政治家による憲法改正論議がかまびすしくなってきているという悲嘆すべき状況がある。

 そんななか、今月5日『報道特集』(TBS)で放送された仲代達矢と桂歌丸のインタビューが話題を呼んでいる。この日の『報道特集』では、「戦争と憲法」と題し、実際に戦争を体験した人の証言を踏まえたうえで、日本国憲法が人々にどのように受け止められてきたのかを振り返っていた。

 番組の前半、当時を知る人々へインタビューしていくパートで登場したのが仲代達矢と桂歌丸。そのなかで語られる戦争体験は凄まじい。1932年に生まれ東京に住んでいた仲代達矢は、戦争末期の東京においては死体を街中で見かけることすらもはや日常の一コマであったと語る。

「まあ凄まじいもんで、新宿あたりへ空襲の後に行きますと、黒こげになった死体が何百と死んでるわけですから、それを通り越して中学へ行ったもんです」

 そして、仲代自身もまた空襲に遭い九死に一生を得る壮絶な体験をした。それは、1945年5月25日の夜、友だちに会うために青山通りを歩いているときのことだった。

「徒歩で行く途中に空襲警報が鳴りまして、焼夷弾がバラバラ落ちてきて、これはいかんと思って逃げ回っているときに、まだ小学生でもないような女の子がひとり逃げているんですね。全然知らない子ですけど、その子の手を握って逃げ回っていたら急に手が軽くなったんですね。で、見たら、焼夷弾が彼女に直撃して、私はその腕だけ持っていたと。自分もやられたかなと思ったんですけど、かろうじて私に当たらないでその女の子に当たって、その手だけ握ってたんですね。恐怖のあまりにその手を捨てて逃げてしまったんですけど、その手を捨ててしまったことを私はいまだ後悔しております」
 
これは「山の手大空襲」と呼ばれる東京大空襲後の大規模空襲で、渋谷、表参道、赤坂などを標的に6000トン以上の焼夷弾が投下され、2万2000人の死傷者を出している。彼はこの空襲を生き延びた。


■仲代達矢「最期に「戦争反対」っていうのを唱えて死んでいきたい」 

仲代達矢といえば、『人間の條件』や『激動の昭和史 沖縄決戦』をはじめ反戦色の強い戦争映画に出演し、とくに主演を務めた『人間の條件』は彼にとっての出世作となった作品だが、役者として仕事をするうえでの基盤をつくったのもまた戦争体験であったと過去に語ったことがある。「キネマ旬報」13年3月1日号ではこのように話していた。

「僕は子どもだったから、批判する力もなにも持っていなかった。校庭へ入れば右に天皇陛下のご真影があってそれに敬礼するというような学校生活を六年間過ごしたわけですから。天皇陛下のために死ぬことは、当然のことだと思っていました。東京の渋谷にいたものですから、昭和二十年の四月から五月にかけての東京大空襲を体験しました。爆弾が投下されて、学校のクラスの半分くらいが死んでしまい、僕は生き残った。そして八月十五日の敗戦を境にして、大人たちの態度が変わってしまった。“鬼畜米英”が一夜にして“ギブ・ミー・チョコレート”になった。もっとも多感な年頃でしたから『なんでだ!』と大人に対するニヒリズムを持ちました。それが役者になってから随分役立ったと思っています。人間の脆さ、負の部分の捉え方に。人間肯定と人間否定の間に板挟みになりながらね」
 
権力も、また、その権力に追随する大人も所詮は朝令暮改で意見を変えるし、信用するに足らない。だから、「お国のため」などと言われても命を差し出す必要などない。彼と同じく、戦争中と終戦後で人が変わったかのように意見を変える大人を見て人間への不信感を抱いたと語る人は多いが、仲代は『報道特集』のなかで、いまを生きる若者たちにこう語りかけた。

「僕らの世代で生き延びている奴はもう少ないですけど、みんなこういう経験しているわけで、何が戦争だと思いますね。国を守るためにって言われると、そうかなぁと思って、みんな権力者の後についていってしまうのかもしれませんけれども。戦争を体験したこともない人たちに、最期に「戦争反対」っていうのを唱えて死んでいきたいですね」

 そして、番組のなかでもうひとり戦争体験を語ったのが桂歌丸だ。彼はインタビュー冒頭から強い調子でこのように語る。

「戦争なんてのは本当に愚の骨頂ですよ。やるもんじゃないですよね。いまだに戦争の爪痕っていうのは残ってるじゃないですか」

 歌丸は1936年に横浜で生まれ育つが、戦争中は千葉に疎開していたため、仲代のように九死に一生を得るような場面に遭遇してはいない。しかし、横浜大空襲のときには千葉から東京湾越しに見える横浜の黒煙を眺め、その煙の下にいる祖母の安否を案じていたという記憶を語っている。


■桂歌丸「戦争を知らない政治家が戦争に触れるな」

 そして歌丸は、「人間、泣かせることと怒らせることは簡単なんですよ。笑わせることぐらい難しいことはないですよ」と語りつつ、戦時中の「禁演落語」について語る。

 禁演落語とは、遊郭に関した噺、妾を扱った噺、色恋にまつわる噺など、国のための質素倹約を奨励された時局に合わないとされ、高座に上げられることを禁じられた53の噺のこと。そのなかには吉原を舞台にした「明鳥」など、今でも盛んに高座に上げられる人気の噺も含まれている。

 また、当時の落語界は観客に人気の古典落語を捨て去ったのみならず、表向きは自ら進んで戦争に協力した。時局柄政府にとって「都合のいい」グロテスクな国策落語を多く生み出してしまったという過去ももっている。歌丸は落語界がもつ暗い歴史をこのように語る。

「あの落語をやっちゃいけない、この落語をやっちゃいけない、全部お上から止められたわけですよ。だから、「長屋の花見」を改作して「長屋の防空演習」としてやっている師匠もいましたよ。面白くないよ、そんなものは」

 そして彼はインタビューの最後、『笑点』では見ることのない怒りに満ちた表情でこのように語りかけた。ここで彼の脳裏に誰が浮かんでいたかは言わずとも誰もが想像つくだろう。

「戦争を知らない政治家が戦争に触れるなと言いたくなるんです。戦争を知らなかったら、戦争をもっと研究しろって言うんです。戦争っていうのは良い物なのか悪い物なのか、この判断をきっちりとしろって言いたくなるんです。それをただ上辺だけで話しているからおかしくなっちゃうんです。良い物だと思っている政治家だったら、我々は選ばないです。絶対に」


 この番組での二人の証言は大きな話題を呼んだが、その一方、ネトウヨからは「桂歌丸は終戦当時10歳だから戦争を知らないくせに」との声も溢れた。

 確かに、仲代達矢にせよ桂歌丸にせよ、終戦当時は10歳前後だ。戦地に赴いたわけではない。しかし、焼夷弾が雨のように降り注ぐなか逃げ惑った経験、千葉から見える故郷・横浜の黒煙をなす術もなく眺め家族の安否を思った経験、これが「戦争を知らない」ということになるのだろうか。十二分に戦争の恐ろしさを伝える経験である。当時を知る世代が次々と鬼籍に入っているなか、絶対に耳を傾けるべき貴重な体験談であることはわざわざ指摘するまでもない。

 ちなみに、番組の最後、仲代達矢はこのように語っていた。

「日本国憲法9条の問題にしてもですね。あれが70年間を平和にしてきたわけですから、憲法が改正される、それから9条に対して自衛隊がどうのこうのっていう問題はね、実に恐ろしいことだと思いますね。だから、憲法改正は具体的に言って反対です。やっぱり、それを改正しないで平和憲法を保っていくのは、日本人の叡智だと思いますね」

 先人たちが反省をもとにつくりあげ、70年間この国に平和をもたらしてくれた「叡智」。これが壊されることのないよう、日本がかつて経験した戦争の悲劇を改めて見つめ直すことには大きい意味がある。
(編集部)