だらだらする日は無くしたく、暇な日は必ず城に行くことを決めています。
さて、今回は河和田城。
室町時代建武年間に馬場大掾氏の一族、鍛冶貞国(河和田入道)が館を築く。
難台城の戦いで戦功を上げたものの討死した江戸通高への報いとして、その子である江戸通景に河和田、鯉淵(内原)、赤尾関(内原)を足利氏満から与えられた。
そのため、鍛冶氏は追放された。
江戸通房は、水戸城主の馬場満幹と婚姻関係を結んでいたが、水戸城主の座を虎視眈々と狙っていた。
応永33年(1426)、馬場満幹が府中城(石岡市)にて祭礼を行い、宴会をしている時に突如反旗を翻し、河和田城から見川城、笠原の谷を経て水戸城へ侵攻し、城主がいない水戸城では防戦虚しく、江戸通房が水戸城を陥落させた。
その後、馬場満幹は府中城から水戸城へ攻撃を度々仕掛けたものの、いずれも敗北。
遂には馬場氏は府中付近にとどまり、没落していった。
水戸城を奪った江戸通房は、河和田城に出自は鹿島郡で大掾氏一族の春秋氏に城主を任せる。
春秋氏は、水戸城の南西から西(渡里・田野)にかけて領地を治めさせ、かなり信頼を寄せていたことが窺える。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐で常陸国統一を黙認された佐竹義宣は、南下し、水戸城、河和田城など、江戸氏の諸城を次々と落城。
落城された河和田城は廃城となった。
現在、河和田城では宅地開発が進み、私有地が多く、吉田城のようにうまく城探検が出来なかった。
だが、土塁、堀は数多く残されている。
史料には残っていないっぽいが、河和田城の鬼門の位置には吉田神社、裏鬼門の位置には八坂神社がある。
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最後は、今咲いている、偕楽園の梅でお別れ。
ぜひ、水戸の梅は綺麗ですので、いらして下さい。