ランニングしていて、丁度いいから歴史探訪も同時にやろう、と思い立ち、立ち寄りました。
今回は「青柳の渡し」と水戸八景「青柳夜雨」。
青柳の渡し
この碑があるのは、茨城県水戸市青柳の国道349号線の万代橋の近く。
水戸城とは反対側の那珂川湖畔です。
たしかに、川の流れが弱まりそうな窪みがある。
水戸城側の海老窪風呂の下に船を渡していました。根本町サッカー場の辺りでしょうか。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐にて、佐竹義宣は、いち早く、石田三成と通じ、豊臣方に付きました。
その功で、秀吉の惣無事令がある中で、佐竹氏の”常陸国統一”が特別に認められました。
そして、佐竹義宣は、父義重と共に南下。
義重は久慈浜を経て水戸城本丸付近を突き、義宣は、水戸市天王郭を突き、重臣の長倉義興は、水戸市袴塚(茨城大学付近)を突いた、三手に分かれて水戸城を攻略。遂に攻め落とした。
ここ、青柳の渡しは、義宣が天王郭を攻める際に渡った渡し。
ちなみに、佐竹義宣は那珂川から北を支配していて、当時の水戸城は、藤原秀郷を祖に持つ江戸氏が根拠にして、那珂川から南の鹿島、新治の常陸国の南側を支配していました。
つまり、那珂川を分けて北は佐竹氏、南は江戸氏。という勢力分布になっていました。
ここから佐竹義宣の常陸国統一の狼煙が上がったと思うと、感慨深いです。
水戸八景「青柳夜雨」
ここは、水戸藩9代藩主徳川斉昭が水戸藩領内の景勝地8つを定めた水戸八景。
青柳夜雨は、その1つである。
ここも国道349号線の万代橋の近くにあり、少し大きな木が1本ある所に石碑がある。
堤防の手前にあるため、その碑からは綺麗な景色は望めない。
その堤防から那珂川方向を見ると、美しい景色が広がる。
江戸時代当時は、城と川、飯を炊く煙が上がっていて、綺麗だっただろう。
水戸藩は35万石ながら、2代藩主徳川光圀の大日本史編纂が未だに続き(編纂終了は明治時代)、窮乏していた為、このような景色を見て、心を癒していたに違いない。
この景色を、あの藤田東湖や會澤正志斎、藤田小四郎、関鉄之介が見ていたんだろうなぁ。
今日はここらで良かろうかい。
見て頂き、かたじけなく存ずる。