先日のこと。
母親と電話をしていたら話が父親に関する愚痴めいた方向になり、またかと思いながら聞いていたら、「でもウクライナの人たちに比べたらこんな悩みぜいたくよね、ウクライナの人たちはいつミサイルが落ちてくるかわからないんだものねえ」と妙にグローバルなことを言い出した。
お、おう…と思いつつ愚痴が長引かないことにホッとして、そうだねえと話を合わせておいたのだけど、よく考えたらその考え方ってなんか危険な感じがする。
もちろんウクライナの現状はテレビなどで見るたび胸が痛むとしか言えない。戦争映画のような映像が、現実に今この瞬間に、同じ地球の上で起きているなんて信じたくないくらい。募金くらいしかできない自分がもどかしい。ウクライナの人たちが日常生活を取り戻せることを心から祈っている。
だけど、それと比べたら私の悩みなんかぜいたくって言い切っちゃうのはなんか違和感があるのです。それを言っちゃあおしめぇよっていうかさー。
そりゃ明日の命があるかわからない状況を考えたら、「長年連れ添った夫ですが私が体調を崩していてもいたわりの言葉ひとつありません(70代・主婦)」とか、「子供に自閉症があり思い描いていた子育てとのギャップに苦しみ、こんな子じゃなかったら…と思ってしまいます(40代・主婦)」なんて悩みはちっぽけではあるんだけど、かと言って悩んでいることに変わりはなく、苦しみが消えるわけでもない。
ウクライナの人と比べることで本心から前向きになれるならいいんだけど、こんな悩みぜいたくだって自分に言い聞かせて悩みを圧し殺すのであれば何か違うような気がするんだなー。いや、そう感じるのは今自分の周りが平和だからであって、実際に自分が戦火の中に置かれたら、心から、あんな悩みちっぽけだった…!!って思うんだろうけど(でも自閉症児連れて戦時下とか避難生活とかそれはそれでこんな子じゃなければ…って気持ちが強まることになりそうだ)
だいたい、ウクライナの現状は報道が多いからこれだけ認知もされてるけど、その前から「イスラエル軍に包囲されて暮らすパレスチナの人」とか、「内戦で故郷を焼かれたアフリカの人」とか、「幼くして売春を強要されエイズに感染したフィリピンの少女」とか、困難な状況にある人は山ほどいるじゃんね。いや何もそんな国外に目を向けるまでもなく、日本でだって震災や水害で家族を亡くした人、家を失った人、犯罪被害に遭った人、辛い思いをしてる人は数え切れないくらいいるわけで。
でも今まではそんな人たちを意識せず、自分の悩みは悩みとして苦しんでたわけじゃないか!何も戦争が始まったからって、自分の苦しみを否定することはないんだよ!
悩みや苦しみは誰かと比べて大きいとか小さいとか言うものではなく、置かれた状況が違えばその状況なりの悩みと苦しみが必ずある。たぶん、子供は名門プリインタースクールに通うバリバリの健常児、本人は育児中の身ながら海外出張もこなす一流商社勤務、経営コンサルタントの夫とは家事育児分担もバッチリ、休日には自宅マンションから徒歩10分の実家(一戸建て)に子供を預けて夫婦デートを楽しむこともあります♪…みたいな人だって悩みは必ずある(…よね?)
だから今苦しいことがあれば、胸を張って苦しいと言っていいんだよ!ただし共感は得られないと思うので間違ってもウクライナの人に家庭の愚痴とか言っちゃダメ、悩みは同じような境遇の人とだけ分かち合うべきだと思うが。
つまり、家から離れた公園に遠征したら偶然にも長女と同じ幼稚園のお友達と遭遇してしまい、クラスが違うから園で一緒に遊んだことはあまりないはずなのに、久しぶりに園のお友達と会ってテンション上がりすぎた長女が「私みゆちゃん(仮名)だいすき、みゆちゃんと遊べてうれしい、みゆちゃんどこ?みゆちゃんみゆちゃん」と距離感おかしくベタベタするのを目の当たりにした上に、そろそろ帰ろうと言ったら大癇癪起こされて、ほぼ初対面のみゆちゃんのお母さんとおばあちゃんまでドン引きされて凹んでる私の苦しみだってないことにしなくていいよね!?(←本題)
しかも帰り道どうにも腹立って、思わず長女にかなり強めの口調で接しているところを近所のお母さんに見られるというオマケ付き。
あーもーやだよー。外出たくないよー。でも家に籠ってると余計ストレス溜まるし長女も暇でグズグズ言うし…
お花見とか楽しみなこともないではないけど、早く春休み終わってほしい。他の家族と隔絶された桜の園とかどっかにないかなー。