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                                  2023年1月15日
                                          VOL.458

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 第458号・目次
【 書 評 】  稲田 優 『転生~満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和~』(牧 久 著  小学館)       【私の一言】 岡本弘昭 『主観的健康感』
  


【書 評】
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◇         『転生~満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和~ 』
◇                      (牧 久 著  小学館)
└────────────────────────────────────┘
                                  稲田 優


 千葉市稲毛区の「千葉市ゆかりの家・いなげ」に「白雲木の花」が咲く、という
話からこの本は始まる。稲毛は評者が50年前から住んでいるところだ。それは満州
国皇帝となった溥儀の弟、溥傑とその妻、嵯峨侯爵家の令嬢浩(ひろ)が、新婚時
代の半年間を過ごした場所だ。二人の間には慧生(えいせい)、「こ(女へんに雩)
生」(こせい)という二人の娘さんがいる。日本の敗戦で満州国が消滅し、溥儀と
溥傑はシベリアに抑留、浩と”こ生”は中国で激動の波にもまれ、先に日本に渡っ
ていた慧生は天城山で心中した。

 浩は昭和62年(1987)に北京で亡くなったが、83才になっていた溥傑は浩の3年
祭に当たる平成2年(1990)に来日、稲毛の旧宅を訪れた。その際、日本人実業家
と結婚して福永姓になっている”こ生”さんが同行し、白雲木の苗木を庭木に植えた

のだという。白雲木は戦前昭和12年(1937)に、浩が溥傑の妻として満州に渡る
直前に貞明皇太后(大正天皇の皇后)に挨拶に伺った時、満州に植えるようにと白
雲木の種を手渡されたのだった。白雲木は浩の母方の実家で育てられ、”こ生”さん

の手で溥傑、浩の旧宅に花を咲かせた。

 溥儀という人物は中国王朝最後の皇帝として、わずか2才の時に宣統帝と称する皇
帝の位に着いた。辛亥革命で清朝が滅亡し、廃帝となったが関東軍の主導で満州国
ができると首都の新京に入り満州国皇帝、康徳帝となる。日本の敗戦で満州国が解
体され、退位する。新京から南へ逃れ、通化から日本に亡命しようとしたが、関東
軍からの指令で奉天に降り立ったところ待ち受けていたソ連軍に捕まり、シベリア
に抑留された。
 溥儀には清朝を再興したいとの気持ちが強かったため、日本の関東軍が実質的に
支配する満州国の執政になったものの当初は不満であり、皇帝の地位に拘ったという。
満州国皇帝から再興・清朝皇帝への夢を抱いていた。シベリアに抑留され、思想改
造の教育を受けた後、東京裁判の証言席に立ってソ連側の意を汲んだ証言をしたが、
その信慿性が疑われた。

 著者は満州国の康徳帝となった後の溥儀の心の変化を描いている。昭和10年4月、
溥儀の訪日が実現し、日本側は盛大な歓迎行事で溥儀を迎えた。その際、溥儀は貞
明皇太后を訪れ、その優しさに母に通じるものを感じ、以来、皇太后を慕うように
なった。その他天皇家との交流が詳しく描写されており、それが「満州国皇帝・愛
新覚羅家と天皇家の昭和」という副題になったゆえんである。

 ところで敗戦時、溥儀と溥傑はなぜソ連軍に抑留されたのか。昭和20年(1945)

8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を破って満州に侵攻、関東軍は総司令部を新京から

朝鮮国境に近い通化に移した。溥儀は8月15日、昭和天皇のラジオ放送を聞いて日本の敗戦を知り、日本に亡命する計画が進められ、京都で余生を送る決意を固めていた。
当初の計画では19日に汽車で平壌まで出ること、平壌には21日に大型飛行機が迎えに
行く、ということだった。ところが関東軍総司令部から計画変更の連絡が入った。
「溥儀、溥傑一行は奉天で大型飛行機がお出迎えする。通化から奉天までは関東軍の
小型飛行機でお運びする」というものだった。溥儀は皇后や溥傑の妻、浩に「私たち
は先に行っているから、陸路朝鮮を経て日本に来なさい」などと別れを告げた。翌19
日、小型飛行機で奉天に到着した直後、ソ連の大型飛行機が降り立ってきてソ連軍の
捕虜となってしまった。著者はソ連に通報したものが関東軍総司令部にいたとほぼ断
定している。

 一方、残された溥傑の妻である浩と”こ生”さんは日本に帰るまで大変な苦労をし
た。昭和21年2月、通化市で日本人が武装蜂起し、中国共産党の八路軍などと戦って
鎮圧され、その事件に巻き込まれた後、4月に牛や豚を運ぶ家畜用の無蓋貨車で新京
に送られ、峻烈極まる取り調べを受けた。浩たちは無蓋貨車で吉林市に移され刑務所
に収容。さらに朝鮮国境に近い延吉駅へ、下車して”市中引き回し”の後、また刑務所の収容された。翌朝、浩は「日本人捕虜は全部殺された」と聞かされる。その年の
6月、八路軍の移動に合わせて6日間揺られてソ連国境に近いチャムスに辿り着く。
浩も”こ生”もひどい下痢が続き、すっかり衰弱していた。チャムスの監獄では満州
国に関わった要人たちも多数収監されていたが、彼らは、「溥傑と浩夫人は日本人の
横暴に強い怒りをもっていた」などと証言、おかげで浩は釈放されたという。その後
はチャムスからハルピンを経て引揚港となった錦州の箶蘆島(ころとう)に向かった。
列車は途中レールが破壊されていたため、貨車を降りて2日間歩き続けた。野宿した際、国民党軍の兵隊がやってきて「女を寄こせ」と銃を突きつけた。トラックで連れ去られた婦女子が戻ってきた時、「みんな歩けないような痛々しさ」だった。その後、錦州ではある同胞から浩が溥傑の妻だと密告され、国民党軍に戦犯として逮捕された。
母娘は北京に護送され、更に上海に移され軟禁された。そこで女優の「岡田嘉子」の
息子と言われる医師の目に留まり、岡田医師を通じて「日本人婦人と幼女軟禁」の情
報が「上海連絡班」の田中徹雄元陸軍大尉に入る。国民政府の許可を得て日本人を内
地に送還するなどの終戦処理業務をする組織だった。田中は浩と”こ生”さんを救出、
二人を変装させて追及をかわし、引揚戦に乗せた。二人は昭和22年1月4日、長崎の

佐世保港に辿り着いた。

 日本に帰ってきた浩と二女の”こ生”さんが、戦犯として中国の撫順にいた溥傑と
文通が許され、16年ぶりに再会を果たすことが出来たのは、毛沢東に次ぐ実力者の

周恩来の計らいだった。中国にいる父、溥傑に手紙を送り続けたのは学習院中等科の3年生だった長女の慧生だったが、学習院大学2年になった昭和32年(1957)12月

に天城山で心中してしまった。
 その4年後、昭和36年(1961)5月、浩と二女”こ生”は中国の広州駅で溥傑と再会
した。
 
 一方、溥儀は1967年に61才で亡くなる臨終の際に、「周恩来総理にもう一度会い

たいなあ」と言ったという。彼は周恩来の日中国交回復という未来を見る目のおかげで、戦犯として処刑されずに北京市の公民として転生したかのように生きた。浩は昭和62年(1987)、北京で死去、73才だった。溥傑は平成5年(1992)86才で亡くなった。
 二女の”こ生”さんは関西の実業家と結婚されたという。著者は日本側の眼からではなく、出来るだけ溥儀、溥傑の目線でも満州国の興亡の史実に光を当てたもので貴重な秀作と思われる。
                                 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆【私の一言】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

               『主観的健康感 』
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                                岡本 弘昭


 我国は世界に誇る長寿国であり、人生100歳時代とも言われている。しかし、その内
容は、平均寿命(0歳における平均余命)は、男性81.41歳、女性87.45歳(2019年)であるが、一方、健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)は、男性72.68歳、女性75.38歳にとどまる。その差は、男性8.73年、女性12.06年であり、これを一言で言えば、我が国は「長生きはすれど病人が多いという事になる。

 やや古いデータであるが、2013年のOECD統計によると、「お元気ですか?」の問いに対して、「私は健康です!」と答える人の割合は、日本人は3割ほどで、アメリカやカナダ人は約9割、イギリスやスウェーデンでは8割ほどであったという。主観的健康感が低いこと等がその原因と考えられる。

 健康感には、客観的に専門家の評価尺度によって健康状態を評価しようとするものと、本人が主体性を持って ”自分の健康は自分で守る”という主観的かつ自主的な判断に基づいて自己評価する主観的健康感がある。
 この主観的健康感は、必ずしも医学的な健康状態と一致しないが、それの高い人ほ
ど疾患の有無に関わらず生存率が高いそうである。このような事から、健康促進には、「主観的健康感」が役立つと指摘されている。この主観的健康感は、気持ち(こころ)の持ち方に影響される。
従って、本人が主体性を持って「自分の健康は自分で守る」という意識を持つことが重
要と指摘されている。具体的には「持病があっても健康的である」「異常数値だが元
気」といった価値観を肯定することである。

 日本人に主観的健康感が低い原因の一つに、遺伝子学的にセロトニンレベルが低く、不安や恐怖を感じやすい特性を持っているとの指摘もある。これは否定は出来ないが、我が国の場合、医療制度の発達から医療面では専門家の価値観による一方的指導に依存しきっている影響も大きいためではないだろうか。

 我が国の現状を理解すれば、主観的健康感の強化への努力が不可避である。このた
めには、主観的、主体的判断をすることを習慣づける事が肝要である。同時に、長寿を美徳とする倫理観から、生活の質QOLを重視する倫理観に意識を転換する必要がある。そのことは健康寿命の長期化にも寄与する事になろう。


  編集後記
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  ユニセフが行った調査レポートカード16は、日本の子供の幸福度は世界38カ国中21位と発

  表しています。
  読解力、数学的学力は高く、身体的な健康は1位だったものの、精神的な幸福はワースト2、

  友達を作るなど社会的スキルも低いため、それらを総合しての結果が21位ということのよう

  です。日本人は、不安や恐怖を感じやすく、幸福を感じにくい特性を持っているといわれて

  いますが、それが子供の幸福度調査にも影響しているという指摘があります。日本人が世界

  に伍するためにはあらゆる面でセレトニンレベルを上げる努力を必要とする時代が到来して

  いるということでしょうか。

  今号もご愛読・寄稿などご支援ご協力有難うございました。(H.O)
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  第459号・予告
 【 書 評 】   亀山国彦『ニュース ダイエット』
            (ロルフ・ドベリ著 安原実津訳サンマーク出版)                    
 【私の一言】  幸前成隆『 与うる所を視る』
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         ■ ご寄稿に興味のある方は発行人まで是非ご連絡ください。
         ■ 配信元:『評論の宝箱』発行人 岡本弘昭
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