〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
                               2022年7月15日
                                  VOL.446

              評 論 の 宝 箱
             https://hisuisha.jimdo.com
            
             見方が変われば生き方変わる。
             読者の、筆者の活性化を目指す、
             書評、映画・演芸評をお届けします。
                        
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 第446号・目次
 【書 評】   片山恒雄 『其角俳句と江戸の春』(半藤一利著 平凡社)
 【私の一言】 幸前成隆 『五美を尊び四悪を屏(しりぞ)ける』



・【書 評】
┌─────────────────────────────────┐
◇            『其角俳句と江戸の春』
◇                     (半藤一利著 平凡社)
└─────────────────────────────────┘
                                              片山 恒雄

 宝井其角(1661~1707)と言えば、ほぼ同時代の向井去来(1651~1704)と並
んで、蕉門の双璧である。句風は、豪放、磊落、機智に富む反面、難解、衒い、
伊達好みなど一癖も二癖もある。事実本書の冒頭に掲げた句も解説なしには到底
理解できない句が多い。本人もそれを意識してか、ほとんどの句に「前書(き)」
を付けている。彼は常に微醺を帯び、奇矯な行動の多いぶん、江戸市民には人気
があった。本書を読んでも、和漢の典籍に対する造詣の深さが察せられる。当時
俳人と鑑賞者が高邁な学識を共有していたと推測される。以下主だった作品を鑑
賞するとともに、其角がいかに赤穂浪士とかかわっていたかについて、後述する
こととしたい。著者は、文芸春秋の編集長として文名高く、本欄でも「昭和史」
について紹介した。難解な句に真正面から取り組み、解読した努力に深く敬意を
表するものである。

第一章 其角の主要作品
 味わい深い句を著者の助けを借りながら辿って行く。

鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
「一日長安の花」という前書があり、正月に詠まれたことが解る。目出度くもの
どかな気分が満ち溢れており、滅多に売れない鐘さえも買われる江戸の繁盛ぶり
が伝わってくる。このような江戸の殷賑ぶりを間接的に表現する手法は学ぶに値
する。史書「吾妻鏡」によると、治承四年九月に江戸太郎重長という人が、武蔵
国の郡司に任ぜられ、これが「江戸」の地名の由来とされる。

我が雪と思へばかろし笠の上
唐の詩「笠は重し呉天の雪」を踏まえた句とされている。著者は、其角が寛永十一
年(1634)刊行の「尤(もっとも)の草紙」を読んでいたと推定する。同本によれ
ば、「尤(もっとも)重きは父母の恩、兜に具足、鎖袴、古布子(ふるぬのこ)、年
貢の俵、商人の海道荷、下手の謡、上手な薬師(くすし)、しめり茶臼、お局の乗
物、無精者の起居、笠の雪」とある。この句は、江戸小唄に引き継がれた。
「我がものと思へばかろき笠の雪、恋の重荷を肩にかけ、いもがりゆけば冬の夜の、川風さむく千鳥なく、待つ身につらき置炬燵、ほんにやるせがないわいな」と。

たたく時よき月見たり梅の門
「和心水推敲の句」と前書がある。「心水」という詩人の「推敲」を主題とした
漢詩があって、それに和しての一句ということ。推敲の言葉の原典は、中国の賈
島という人が、「鳥は宿す池辺の木、僧は推す月下の門」という詩を得たが、
「僧は推(お)す」は、「僧は敲(たた)く」としたほうが良いのであろうかと迷っ
ていた時、たまたま通りかかった韓愈(都知事・大詩人)が、「敲くのほうが遥
かに良い」と判定を下した。この有名な故事から、芭蕉は「三井寺の門叩かばや
けふの月」と詠み、蕪村も「寒月や門をたたけば沓の音」の句を得た。漱石にも
「梅の詩を得たりと叩く月の門」の佳句がある。

雛やその佐野のわたりの雪の袖
「佐野のわたり」と来れば無風流な私でさえも、「駒とめて袖うち払ふかげもな
し佐野の渡の雪の夕暮」という新古今和歌集に収められた藤原定家の、雪の霏(も
や)々と降る夕暮れ色の寂寞感を連想するが、著者は「其角が吉原詣での帰途さし
かかった墨田川のほとりの渡し場で、降り始めた雪を振り払おうと、白粉の浸み
込んだ袖に甘い情緒を偲びつつ詠んだ句である」と断定する。定家と言えば、明
月記で「紅旗征戎吾事に非ず」の名文句で、源氏と平家の権力闘争の中にあって、
「世の中の栄枯盛衰にわれ関せず」と記したものの、現実には中納言の地位に執
着した身上が記録に残されている。

雀子やあかり障子の笹の影
「春の日をいっぱいに受けた障子に、庭の笹の影が映って、ちらっと子雀の動く
影も見えた」いう長閑な情景である。原典を辿れば、「十六夜(いざよい)日記」
の作者の阿仏尼のところに歌人の藤原為人が訪ねてきた。阿仏尼は「あかり障子
で一首遊ばせ」と持ち掛けると、為人は「古(いにしへ)の犬きがかひし雀の子飛
びあがりしや憂しと見るらん」と返した。「犬き」とは、源氏物語の若紫の巻に
出てくる話で、寵愛する雀の子を取り逃がして泣く若紫(後の紫の上)に同情す
る光源氏の気持ちを詠んだ。其角は、「障子に鳥の影が走ると、佳き人が訪ねて
来る」という故事を踏まえて詠んだとされている。

越後屋にきぬさく音や衣更
「江戸名所図会」には、日本橋の欄に「駿河町三井呉服店」と題した挿絵が出て
いるそうである。軒先の看板には、「呉服物品々現金掛値無」と大書されており、
当時は画期的な「現金掛け値なし、反物の切り売りOK」の商法が大当たりした
とある。越後屋とは今の三越百貨店であるが、近江の人である。創業者の三井八
郎右衛門の祖父が越後守であったことから命名された。初夏の衣更の頃のひんや
りした空気の中で、越後屋の手代たちが、客の注文に合わせて絹をきゅっと裂く
音が響いたというのであるが、多分其角が吉原の帰りにでも店先を通り掛けに詠
んだものであろうとは著者の見立てである。拙作の「息つめて絹裁ち初むる梅雨
晴間」からこの句を連想して頂いた鑑賞者あり。蛇足ながら。

夕すゞみよくぞ男に生れけり
  野村胡堂の「銭形平次捕物控」によると「五月二十八日(無論旧暦)は両国の
川開き。この日から始まって八月二十八日まで両国橋を中心に大川(隅田川のこ
と)の水の上が江戸の歓楽の中心になるのです。わけても五月二十日の夜は涼み
船は川を埋め、両岸には涼みの桟橋を連ね、歌と酒と歓呼と鳴り物の渦巻く頭上
は(中略)大花火が夜半近くまでもひっきりなしに漆の夜空に炸裂して、江戸の
闇に豪華極まる火の芸術を鏤(ちりば)めるのでした」とある。しかし、貧乏な江
戸市民には、縁台涼みもあったようで、そこに新内・常磐津・清元の流しが巡っ
て来たようである。其角はどちらの夕涼みを楽しんだのであろうか。

明月や畳の上に松の影
 現代にも通ずる名句であると思う。皓々たる月の光を浴び、庭の松がくっきり
と座敷の畳に影を落としている。智海という僧に充てた其角の手紙の中に、「良
夜四ツ過清影」と前書してこの句が詠まれたという。四ツは午後十時、著者の育っ
た下町で金持ちと言えば質屋、その縁側に月見団子が置かれている。幼い著者は、
竹竿の先に釘を付け、塀の外から団子を狙ったという。月見団子の数は、十五夜
には十五個、後の月である十三夜には十三個と決まっていたそうな。私はその数
の団子を、下から安定的にどう積み上げたかを、頭の中で想像して見た が、結
論は出なかった。

第二章 其角と赤穂浪士
 この章は、史実に照らして虚実ないまぜになっている。しかしすべてが嘘では
なく、古文書によって真実が裏付けられている事柄もある。内容が興味深いので、
敢えて一章を設けて供覧する次第である。
イ、両国橋上の名場面
 「笹や笹、笹は要らぬか煤竹の…」笹売りに身をやつした赤穂の浪人大高源吾。
そこに通り合わせた其角、「子葉(大高源吾の俳号)殿ではござらぬか」と呼び
止めて、自ら腰の矢立ての筆を執り、「年の瀬や水の流れと人の世は」と句書し
て源吾に渡す。源吾は即座に脇句を付けた。「明日(あした)待たるるその宝船」。
時は元録十五年(1702)極月十三日。なぜ十三日か。岡本綺堂の「半七捕物帳」
の「吉良の脇差」によれば、江戸の煤払いは十三日に決まっていたという。其角
の句に楽しい句がある。「煤掃いて寝た夜は女房めづらしや」。因みに広辞苑に
よれば、「めづらし」には新鮮、賞賛すべきの意味がある。

ロ、誠によい家来を持たれたのう
 源五「浪人になってこの始末、どうもお知り合いの皆々様へ御無音にて失礼の
極み」。其角「なになに人の浮き沈みは世の習い。気に病むことではない」と着
ていた羽織を脱いで源五に着せ掛ける。この羽織は其角が俳句を教えている松浦
候からの拝領品で。次の場は「松浦邸書院の場」。この松浦邸は吉良の屋敷の隣
りにある。其角は松浦候に「昨日偶々源吾殿に逢ったので、拝領の品を与えた」
と言うと、松浦候怒り出し、「貴重な羽織を笹売り風情に呉れてやるとは何たる
こと、許さぬ出て行け」。其角が退出しようとして、昨日の別れ際の源五の脇句
を口ずさむと、松浦候は、「明日(あした)待たるるとは今日のことではないか」。
折からドンドンドンと山鹿流の陣太鼓、候は「おお源五の謎が解けたぞ」。松浦
候はひそかに赤穂浪士の討ち入りを心待ちにしていた。次の場面は「松浦候邸の
玄関先」。煤払いの笹竹売りとは打って変わって、凛々しい討ち入り装束の大高
源吾、松浦候に首尾よく本懐を遂げた旨を告げると、候は思わず落涙、「浅野殿
は誠によい家来を持たれたのう」。傍にいた其角は源吾に「辞世の句があるであ
ろう」と問いかけると、源吾は槍の先に付けておいた短冊を取り出し、うやうや
しく松浦候に差し出した。候はそれを読み上げる。「山をぬく刀も折れて松の雪」
静かに幕。

ハ、月雪の中や命のすてどころ
 芝居の松浦候とは、史実によれば吉良邸の隣に居住していた旗本土屋主税を模
したもの。しかも芝居にあるように、其角は討ち入りの前夜(十四日の宵)に、
服部嵐雪、杉山杉風など芭蕉門下の俳人たちとともに土屋主税邸で開かれた句会
に出席していたのである。その時の俳諧連句が残されている。

「橋一つ遠き在所や雪げしき」という土屋主税の発句は当夜の雪景色を詠んでい
る。其角が脇をつけて挨拶する「もつ手薑(かぢか)む酒の大樽」。これで当夜其
角が土屋邸にいたことは疑いのない事実と言える。そこで其角の書簡。宛先は秋
田藩の家老梅津なにがし。「其角は幸にここにあり、生涯の名残を見んとて門前
にはしり出れば、おのおの吉良邸へしのびいり候ほどに、「我雪とおもへばかろ
し笠のうへ」と高らかに一声呼ばはり、門戸を閉じて内を守り、塀越に提灯とも
し始終を窺ふに、そのあはれさ骨心にしみ入、女人の叫び、童子の泣声、風飄々
と吹きそうて、暁天に至りて本懐已(すで)に達したりとて、大石主税、大高源吾、
物穏便謝儀をのべたること、武人の誉といふべきなり。
「日の恩やたちまちくだく厚氷」と申捨てたる源五が精神、いまだ眼前に忘れが
たし、貴公年来の熟魂(昵懇のことか)故、具(つぶさ)に認め進し申し候」(以
下略)。そして全文の最後に一句添えている。「月雪の中や命のすてどころ」。
日付は十二月二十日、事件のまさに第一報である。
 さて、以上の筋立て、其角のものとされる書簡、もし本人が書いたとすれば、
SF作家顔負けの作品と言えよう。しかし、後世の学者の研究により、其角の書
簡は残念ながら、偽物と判定されている。

二、浪士の初七日に詠んだ句
 省略

終わりに
 著者の生育地は下町であり、其角の家、吉良邸、東大在学中にボート部員とし
て遠漕した隅田川、もっと言えば花柳界の吉原などといずれも近接しており、懐
かしさもひとしおであったと思われる。古今の文献を精力的に渉猟し、根気よく
句意を探求した姿は敬服に値する。第一章は、其角の秀句百三十句について、著
者が独自の解釈を施したものの中から抽出した。第二章の赤穂浪士との関わり合
いについては、虚実を深く詮索することなく、ひたすら楽しむべきものと思われる。
 幕府は事件後、市民に対し浪士の墓地を参拝することを禁じたが、其角は浪士
への思慕の念止み難く、新盆を選び、人目を忍んで泉岳寺にお参りした。しかし、
雑草がはびこり、荒れ放題であったという。其角の無念さが偲ばれよう。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆【私の一言】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

         『五美を尊び四悪を屏(しりぞ)ける』
───────────────────────────────────
                             幸前 成隆

「五美を尊び四悪を屏(しりぞ)ければ、もって政に従うべし」(論語)
五つの美徳を行い四つの悪行をしないようにしなさい。孔子が子張に教えられた
言葉である。
子張が孔子に、いかにすれば政治に従事することが出来ますかと尋ねた。答えて
曰く「五美を尊び四悪を屏(しりぞ)ければ、もって政に従うべし」

 五美とは何か。孔子曰く、「恵して費やさず、労して怨みず、欲して貪らず、
泰にして驕らず、威ありて猛からず。」
一つは「恵して費やさず。」民の利とする所に沿って利益を与えれば恵して費や
さずにすむ。
二つは「労して怨みず。」労すべき事を選んで労働させれば、怨みは生じない。
三つは「欲して貪らず。」欲望を仁に向ければ、貪欲にはならない。
四つは「泰にして驕らず。」相手の衆寡大小にかかわらず、常に泰然として侮ら
ない。
五つは「威ありて猛からず。」衣冠をととのえ儼然(げんぜん)としておれば自
ずと畏敬する。この五つを行いなさい。

 四悪とは何か。孔子曰く。「教えずして殺す。これを虐と謂う。戒めずして成
るを視る。これを暴と謂う。令を慢(ゆる)くし期を致す。これを賊と謂う。猶
(ひと)しく人に与うるに出納の吝なる、これを有司と謂う。」
教えもしないで殺すのを虐と言い、あらかじめ警告しないで成績を迫るのを暴と
いい、命令を緩くしておいて期限を厳しくするのを賊といい、どうせ与えるのに
出納をしぶるのを有司(小役人根性)という。この四つをしてはいけません。



編集後記
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
  ドイツと中国には、「朝食は皇帝のように、昼食は王様のように、夕食は物乞
 いのように食べろ(朝食は豪華に食べ、昼食は腹いっぱい食べ、夕食は少なく食
 べる)」という意味の諺があるそうです。結局は、日の出と共に起きて体を動か
 して働き、夕食を軽めに食べて日が暮れると共に寝る、太陽の周期と共に動く生
 活が生体リズムを整え、老化を遅らせる方向にも働くということだそうです。出
 来るだけ自然の法則に沿って生活することが重要ということでしょうか。

 今号もご愛読・寄稿などご支援ご協力有難うございました。(H.O)
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
  第447号・予告
 【書 評】  岡本弘昭 『弱者の戦略』稲垣栄洋著 新潮選書
 【私の一言】 吉田竜一 『2025年のこと』

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
    ■ ご寄稿に興味のある方は発行人まで是非ご連絡ください。
    ■  配信元:『評論の宝箱』発行人 岡本弘昭
           ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
           MAIL:hisui@d1.dion.ne.jp