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                                                  2022年4月1日
                                                       VOL.439


                   評 論 の 宝 箱
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                     書評、映画・演芸評をお届けします。

                         
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   第439号・目次
   【書  評】  佐藤孝靖  『室町は今日もハードボイルド---日本中世のアナーキーな世界』
                    (清水克行著 新潮社)
   【私の一言】 庄子情宣  『長寿と倫理観』




・【書 評】
┌─────────────────────────────────┐
◇    『室町は今日もハードボイルド---日本中世のアナーキーな世界』
◇              (清水克行著 新潮社)
└─────────────────────────────────┘
                                                             佐藤 孝靖


 本のタイトルの通り軽妙な語り口ながら中世社会の実態を史実に基づいて記述した学

術書のような深みのある教養書だ。

 評者は学生時代から能楽・謡曲を趣味としており、学生時代のOB仲間と近時はzoomを

使ってWebで稽古をしている。新型コロナ禍で人との交流を自粛しているための新たな試

みではあるが、zoomのおかげで普段気にも留めていなかった細かいことが気になること

がある。「自然居士」という謡曲の稽古をしているうち、自然居士と呼ばれていた説教師が身売りした娘を取り返そうと娘を追いかけ、娘から受け取った小袖を返すので娘を開放せ

よと人買い商人に迫る。


 人買い商人は「人を買い取ったら再び返さない」という天下の大法がある、と主張して解

放を拒否する。そんな大法が存在していたのだろうかと友人に話題にしたところ、中世に

は人買いについての「大法」があったと解説する近刊本があると紹介されたのがこの本だ。なんとこの本では人買いのことについては謡曲「自然居士」から説き起こしている。

 中世の日本社会は朝廷や幕府などの定める「大法」とはべつに、様々な社会集団に独自の「大法」があって、それが各々拮抗しながら併存していたところに特色があるとしている。人買い、人さらいの悲劇は「自然居士」、「隅田川」が有名だが似たような能は「桜川」、「信夫」、「浜平直(はまならし)」、「婆相天(ばそうてん)」、「稲舟」など数多くあるとの由。それ

だけ当時の社会では人身売買はありふれた悲劇であったらしい。人身売買の標準相場は一人につき銭2貫文。米相場から類推すれば1貫文はおよそ10万円ぐらい。つまりわずか

20万円ほどで人間一人が売買されてしまう。買手は土地を大規模に展開する東北地方の富豪が多かったそうだ。この後も戦国時代まで日本中世では「飢饉」や「餓死」を理由に人身売買は半ば合法化されていたという。人買い商人が「人を買い取ったらふたたび返さない」というのも、購入時と買い戻し時の相場の激変があることを見越して、トラブルを未然

に防ぐために生み出された法慣習とみるべきだろうとのこと。

「正義」の反対は「悪」ではなく、「もう一つの正義」が存在していた。天正18年(1590年)4月、小田原北条氏を滅ぼし天下統一を果たした豊臣秀吉は、関東の大名たちに宛てて人身売買の全面禁止を命じている。とくに東国は人身売買が野放しの土地柄だった。

「東国の習いとして女・子供を捕らえて売買する者たちは、後日でも発覚次第成敗を加える」と厳命した。中世を生きる人びとの最大の魅力は同じ日本列島に住みながら、彼らが私たちの「常識」や「道徳」から最も遠いところにいる存在という点にあるという。

「士農工商」という歴史用語を、支配階級である武士を頂点として生産に従事する農民が次に偉く、何も生産しない商人は最下層に位置付けられたという説明は、間違いだとの由。「士農工商」は中国の古典に由来する言葉で、本来の意味は「あらゆる職業」の人といったものだとのこと。だから当時も江戸時代の人々も、決して職人、商人を武士や農民の下の身分とは考えていなかった。それどころか滋賀県堅田の一向宗、本福寺に伝わる「本福寺跡書」のなかには、農家は天候に左右される仕事で何かと不安定な生業だが、まことに商人・職人は手堅い仕事である。「だからそうした人たちを檀家に持てば、いざというとき寺にとって頼りになるのだ」と教訓で結んでいるそうだ。さらに「本福寺跡書」には、主人に仕える侍たちを徹底的に軽蔑し、それに比べて主人を持たない百姓(ここでは農民に限らず一般庶民の意味)は、誰にも諂う必要がない自由な立場にあることが、じつに誇らしげに語られている。しかもそうした百姓たちが「王孫」であることに由来すると断言されている。百姓はみな天皇の子孫であり、誰に頭を下げる必要もない存在なのだと。百姓たちは公文書で自分
の身分を名乗るときには、きまって「御百姓(おひゃくしょう)」と書くことになっていた。ここには「百姓」が天皇に直結する潜在的に高貴な身分であるという自意識が反映されているとみる。こうした多分に幻想を含んだ民衆思想のことを研究の世界では「御百姓意識」と読んでいるという。

 そのほか、中世はコメを測る1升「枡(ます)」の大きさが荘園ごとにまちまちであったという史実、たびたび変わる年号には”時間のものさし”としての役割をほとんど期待しておらず、”世の中がリセットされたことを世間に示す”厄払いこそが最大の役割だったとのことが丁寧に解説される。中世日本は分権的な社会で、鎌倉時代については西に朝廷、東に幕府という2つの中心があり、戦国時代になるとそれがさらに大名の領国ごとに細かく分裂していく。現実の社会はそれどころではなく、容積、距離、通貨換算法にいたるまでまさに細分化されたアナーキーな実態をもっていたのだ。公権力に頼らずすべてを当事者の「自力」で解決する自力救済原則。神仏に対する呪術的な信仰心の篤さ。加えて政治・経済・社会の諸分野における多元的多層的な実態。それらは日本の中世社会の三大特質といっていいだろうとのこと。

 最後に室町時代にルーツがあるという伝統芸能、能楽について興味深い問題提起をしている。中でも世阿弥が創始したとされる夢幻能という形式は、名所旧跡を訪ねた旅人や僧侶の前に神や霊が出現し、その土地にまつわる伝説や身の上を語るという表現スタイルで、能楽の代名詞となっている。この夢幻能についてはその神や霊と人間が交流する物語設定から、しばしば「中世の人々の心性を今に伝える」とか、「神仏とともに生きた中世人」などと形容されて持て囃されている。著者はそれに少し疑問を持っているという。

そもそも古代・中世において、神や霊や鬼は俗人には見ることのできないものだった。それは、本来語ることや造形することが困難なシロモノだったはずだと指摘する。それを人間が演じて、しかも劇として演出するというのはかなり合理的な精神によるものなのではないだろうか。すなわち、呪術から合理主義への時代の到来の先触れと解するべきではないかという問題提起である。神や霊すらも芸能や娯楽として引き下ろしてしまった室町人の所産がじつは能楽なのではないだろうか、と訴えかけている。

 

 著者の「中世」についての思いは深い。「中世」は日本の歴史のなかでも最もアナーキー

な時代であり、対外的にも対内的にも「国家」としての建前がかろうじてギリギリ維持されている社会だった。そんな社会から学ぶべきことが何もないとは思えない、と著者は続ける。すべてが一つに統合された社会が本当に幸せな社会なのか。はみ出し者に行く場所がない社会が本当に幸せな社会なのか?わが先人たちが生きたアナーキーでハードボイルド

な社会は、私たちの”あたりまえ”を足元から揺るがす破壊力を常に秘めていると熱く語っ

ている。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆【私の一言】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

                   『長寿と倫理観』
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                                            庄子 情宣
 

 高齢者は、身体の各器官を構成している細胞数の減少や細胞そのものの働きが低下することで生理的老化が進行し臓器機能や恒常性維持機能が低下し、病気が併存する等の身体的問題が生ずる。この身体的機能の低下は、進捗に個人差があるが、加齢とともの

加速する。


 例えば、年代別人口に占める要支援・要介護認定者で見れば、65-69歳2.95%、70-74歳5.6%、75-79歳12.6%、80-84歳は27.1%、85歳以上は59.6%である。
また認知症の有病率で見れば、65-69歳1.5%、70-74歳3.6%、75-79歳10.4%、80-84歳22.4%、85-89歳44.3、90歳以上64.2%である。

 我が国の総人口は、令和2年10月1日現在 1億2,571万人で、うち 65歳以上の高齢者は、3,619万人で、高齢化率(総人口 に占める高齢者割合)は28.8%である。一方、出生率は

低下一途であり、高齢化率は令和 18年に33.3%で3人に1人、令和47年には38.4%と推計

されており、これは 国民の約2.6人に1人が高齢者ということになる。つまり日本社会は高

齢者だらけでしかもその多くが病人である可能性がある。

 ところで社会保障費用の内容は、年金、医療、介護、子ども・子育て等であるが、高齢者が給付を受けるものが中心である。その給付金規模は、2021年予算ベースで129兆円で

あるが、今後は、既述のような社会動向から2025年には140兆円に増え、2040年には190

兆円に達すると言われている。日本の福祉制度の基本は保険制度による支え合いであ

るが、保険料のみでその費用を負担できず不足分は財政に依存する。これが財政の悪化につながり、同時に子や孫の世代に負担を先送りしているのが現状であり、今後ともます

ます悪化する。

 これらに対して政府は、全世代型社会保障構築会議を立ち上げ、社会保障の給付や負

担の改革をすすめつつある。これに伴い、年金、医療、介護の給付を抑制しつつ、一方働

く力のある高齢者にもっと負担してもらうといった改革を指向している。これらを円滑に実

現には、まず、国民の長寿は関する倫理観を改める必要があるのでないか。具体的には

長寿とは健康長寿を意味しするものとし、延命措置などによる生命維持は長寿とは考え

ない、と同時に高齢者も敬老精神に甘えることなく、次世代の繁栄を心がける事を基本と

する心構えを持ち、例えばコロナ禍における病床逼迫時には年齢によるトリアージ導入の是認や、単純な延命治療を回避する意思を予め表示するなどなど、時代にそった倫理観

を自ら率先して作ることである。

 平成28年の日本生命の「長生き」に関する調査では、「長生き」とは平均80歳以上とあるが、「長生きしたいと思う」人は46%で半数に満たない。同時に「長生きに不安を持つ人」は、やや不安を含めて54.4%に上る。つまり、これら国民の多くは、老々介護や、認認介護にな

りやすい長寿は望んでいないといえる。その背景は老後の生活費や医療費などの経済的側面と、自己の健康維持の不安にある。
 
 こういう時代であり、いたずらに単純な人生100年時代を標榜することなく改めて長寿の

意味を考え直し、時代にそった倫理観をもち今後の社会に備えたいものである。


編集後記
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 今冬は寒さが厳しかったせいか、この時期の草花は例年に比し一段と美しく感じられます。

 ところで、「花を弄(ろう)すれば香り衣に満つ」という禅語があるそうです。
もとは唐の詩人・于良史の詩「春山夜月」の一節です。だが、禅の世界では時に作者の意図を超え、人生上の意味を込めて使うことが多いそうで、花に囲まれ花に触れていれば衣類に芳香が沁(し)み

込む、それと同じように、よき友よき環境に親しめば自ずとよき人になると解するそうです。

(玄侑宗久氏)
新年度。それぞれの立場で、よき環境を作り、よき人材を育てることを目標にしたいものです。

今号もご愛読・寄稿などご支援ご協力有難うございました。(H.O)
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    第440号・予告
   【書  評】  岡本弘昭 『明治維新という過ちー日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』
                     (原田伊織著  講談社文庫)
  【私の一言】 幸前成隆 『任にたえうるか』

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            ■  配信元:『評論の宝箱』発行人 岡本弘昭
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