松葉屋の瀬川たちのそれからを、詳しく見ていこう。
吉原の一番目立つ仲之町通りで、大見世を張っていた遊女屋の松葉屋が、名代の看板遊女としていたのが「瀬川」である。
花魁道中をはじめたのも松葉屋だと言われているが、松葉屋にはわかっているだけでも9人の「瀬川」という名跡を継いだ遊女たちがいた。
松葉屋の瀬川たちは、喜多川歌麿、鳥居清長、歌川豊国など一流の絵師に浮世絵として描かれ、数多く残されている。
特に9人の中には、亡夫の敵を討った仇討瀬川、下総国の農民の出ながら才女として知られた江市屋瀬川、そして鳥山検校に身請された鳥山瀬川の3名の有名な瀬川がいた。
逸話などにもなったため、不確かな部分もあるが、二代目と四代目、そして五代目の瀬川のその後を見てみよう。
二代目瀬川の本名はたかといい、大和国大森右膳の娘として生まれた。
たかは美しいと評判の娘に成長すると、町奉行与力の源八という者がたかに恋心をよせる。
しかし素行の悪い源八は、父親の右膳から無視されたため、右膳の屋敷の前に殺した鹿の死骸を置いた。
するとたかの父右膳は牢に入れられ、大坂で没している。
その後たかは縁あって大坂城代・内藤豊前守の家臣・小野田久之進という者に嫁いでいる。
ところが、1718年享保3年に久之進は用金450両を運ぶ途中、江尻宿で盗賊に殺害されてしまう。
仕方なくたかは、老母を養うため松葉屋の遊女となった。
たかはたちまち松葉屋一の花魁となって、先代が富豪に請け出されて以来暫くその名が絶えていた瀬川の名を襲名した。
1722年享保7年4月、偶然にも夫の敵である盗賊が客として松葉屋に現れたが、それは源八であった。
瀬川は源八が携えていた夫の脇差で肩を刺し、公儀の裁きによって源八一味は晒し首となった。
見事夫の仇討をした瀬川は町奉行の裁きで、遊女奉公を免除され幸せに母親と暮らした。
晩年二代目瀬川は出家し、自貞尼と名乗ったといわれている。
続いて次に、四代目を名乗った瀬川は、「器量美しき事白芙蓉のごとし」といわれた絶世の美女だった。
そして四代目は、江市屋宗助と言う豪商に身請けされたため、江市屋瀬川と呼ばれた。
四代目瀬川は、下総の農家の娘であったが、三味線や浄瑠璃の他、笛や舞踊などに優れていた。
そのため松葉屋の半左衛門と女将は瀬川を、絵は池大雅、俳諧は岩本乾什と岡田米仲、卜筮は平沢左内の門下生として諸芸を習わせている。
四代目は、客に歌を詠んだり、占ったりして、決して飽きさせることがなかったと言う。
この四代目瀬川は、1755年宝暦5年末に江市屋宗助という商人が身請したが、それは表向きのことであった。
実際はある大名の家老が身請して薬研堀村松町で囲い者にしたのだと言われている。
そして五代目を継いだ花の井改め瀬川は、衆目を集める美形の花魁であった。
五代目は、大富豪の鳥山検校に大金で身請けされたが3年目に、鳥山が悪徳の金貸し業者として全財産没収の上、江戸追放となった。
しかしその後の五代目瀬川は、裕福な武士と結婚して、子供を二人産み、幸せに暮らしたとも言われている。
また松葉屋半左衛門は、4人の瀬川を1000両以上で身請けさせたので、莫大な財産を築いたと言われている。
ではなぜ松葉屋だけに、人気花魁が集まったのかという疑問が生じてくる。
これには、松葉屋出入りの女衒の存在が、大きかったと考えられる。
女衒は、当時浅草の山谷町や田町付近に住んでいた人買いである。
そして女衒は貧しい農家や、江戸の裏長屋、時には零落した武家や商家を回って、娘を買ってくるのである。
まだ幼い少女たちを、いかに見定めて、将来の売れっ子遊女となる子供たちを仕入れて来るのかが、女衒の命であった。
松葉屋に出入りする女衒には、目先の利くスカウト、女衒が多かったのである。
女衒たちは嫌がる少女たちに、「白いごはんが毎日3回食べられて、きれいな着物を着ることが出来る」を殺し文句にした。
この言葉につられて、親も少女たちをわずか数十万円という金額で、女衒たちに引き渡した。
口減らしのため、間引きが普通に行われていた時代である。
江戸時代は、貧しい家庭では、それだけ食べ物や着る物にも事欠く家が多かった。
このような遊廓やそれを支えるシステムが、昭和の売春防止法が出来るまで、全国各地に残っていたことに驚きを隠せない。
やはり戦後までは、日本の庶民には、貧しい家庭が多かったことの証明とも言えるのである。
【松葉屋の瀬川】ユーチューブ動画
