信頼しながらも、対立した二人、一条天皇と藤原道長のその後を、詳しく見ていこう。
1011年寛弘8年5月、一条天皇が病のために床についた二日後、道長は赤染衛門の夫・大江匡衡を呼んで天皇の寿命を占わせた。
すると匡衡は、天皇は間もなく崩御する、という占いの結果を道長にだけ報告するのである。
病床の一条天皇は侍従中納言の藤原行成を枕元に呼んで、譲位についてと敦康親王の扱いを相談している。
この時、行成は過去の事例を引いて、後見のない親王が皇太子になれば世の中が乱れる、と切々と語った。
そして譲位や立太子のような大事なことに関しては、神の思し召しに任せるべきだ、と行成は天皇に訴えている。
定子の忘れ形見である敦康親王を次期天皇の東宮にすることにこだわっていた一条天皇は、考えを改める。
藤原伊周が逝去して中関白家が没落して、後見を失った敦康をあきらめ、一条天皇は道長の孫・敦成親王を次期東宮にすることに決定する。
行成は早速天皇の意向を伝えるために、道長のところに向かったが、宮中では女房たちが天皇の病がおもいと、あちこちで泣いていた。
道長は行成から話を聞くと、次の天皇となる居貞親王を訪ね、譲位について話し合いをしている。
その後道長は、夜御殿で僧慶円と大江匡衡の占いの結果を話しながら泣いていたが、それを隙間から一条天皇が見ていた。
自分の寿命が尽きようとしていると知った一条天皇の病状は、さらに悪くなった。
中宮彰子は一条天皇と道長が、敦康ではなく敦成に決定したことを聞いて激怒したが、手遅れであった。
一条天皇は、居貞親王が訪れた席で対面して、譲位することを伝えた。
譲位した翌日に一条上皇は、出家する意思を示したために、僧慶円を戒師として出家した。
その時に道長は、剃髪に先立って行われる洗髪を奉仕している。
法皇となった一条は、枕元の中宮彰子に対して、妻一人を残して彼岸に旅立つ刹那さを辞世の句に詠んでいる。
七歳で即位して二十五年の間、天皇という重責に耐えながら生きた一条は、出家して三日後に32歳の若さで崩御した。
崩御から三日後夜半に入棺の儀があり、さらにその12日後に遺骸は葬送所へと向かっている。
柩は一条大宮を北へ向かい、船岡山の南西の麓を北へ進み、紙屋川に沿って北上して葬送所に至った。
そこで遺骸は荼毘に付されたが、葬列には左大臣の道長や右大臣の藤原顕光らが加わった。
荼毘など一連の葬儀がすべて終了したのは、朝の6時ごろであった。
遺骨は行成と僧慶円が拾骨して白壺に入れ、参議の藤原正光が首にかけて東山の円成寺まで運んで埋納している。
円成寺への納骨は一時的なものであり、三年過ぎたら父である円融法皇の御陵の傍らに改めて埋葬されている。
実は一条は生前中に道長に、死後は土葬で父の傍らに埋葬してほしいと遺言していた。
ところが道長はこの一条の大切な遺言を忘れ、火葬にしてしまったてから思い出し、嘆息したという。
一条天皇と道長の関係は、信頼仕合ながらも、対立するという奇妙な関係であった。
一条の生前中、二人は互いに無くてはならない存在にも関わらず、常に互いに腹の探りあいをしていた。
道長にとって一条は、自分を大事にしてくれた同母姉・詮子の一人息子で、かけがのない身内、甥っ子のはずである。
しかし、その甥っ子の大事な遺言を忘れるというところに、道長の一条に対する姿勢が現れているように思える。
権力奪取のためには、身内を犠牲にしても仕方がない、という道長の姿勢が見てとれるのである。
道長は一条や彰子たち娘など多くの身内の犠牲のおかげで、権力の中枢に上りつめることが出来た。
しかし、そのために多くの身内が辛い思いにじっと耐えたのである。
摂関政治が長続きしなかったのは、身内の犠牲の上に成り立つという、極めて脆弱なシステムだったからではないだろうか。
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