興福寺別当の定澄は、大和守源頼親と争う自分たちの訴えを直ちに陣定にかけなければ、屋敷を焼き払うと道長に迫った。
道長vs.定澄の戦いを、詳しく見ていこう。
1006年寛弘3年、大和守源頼親の郎党・当麻為頼と、当時は山階寺と呼ばれていた興福寺の学識僧・蓮聖が、田畑の領地問題で争っていた。
そして興福寺と頼親の紛争で、僧侶一人が死ぬという、殺人事件にまで発展していた。
ところが当麻為頼は、まだ帰属も決まっていない田畑で耕作をはじめたため、興福寺側が問いただそうと押しかけた。
これを見て驚いた為頼は、家財を持ち出してから自邸に火をかけ、興福寺の濫行だと騒ぎ立てた。
為頼は朝廷には、興福寺に脅され家を焼かれたと、逆に蓮聖を訴えたのである。
朝廷は十分調査せずにこの訴えを認め、興福寺に非があると判断して、蓮聖の公請という法会や講義に召される権利を停止している。
この勘違いも甚だしい裁定に、怒った興福寺別当の定澄は、上京して道長に直談判した。
定澄は、三千人もの武装した僧侶たちを上京させ、大和守と争う自分たちの訴えを直ちに陣定にか けなければ、屋敷を焼き払うと道長に迫まった。
道長は定澄に、「これほどの暴挙は許しがたい」としなが らも「陣定で審議はする」と約束する。
そして翌朝、陣定で話を聞いた藤原隆家は、検非違使を使って追い払えと武力解決を訴えた。
しかし道長と藤原実資は、洛中で武力を使って排除することには反対し、結論が出ずに時間だけが過ぎ去った。
すると、業を煮やした興福寺の三千の僧侶たちが、内裏の大極殿の前に押し寄せた。
道長は再び定澄との直談判で、必ず公正な裁定を下すことを約束して説得し、ようやく三千人もの武装集団を都から退去させている。
これで一件落着と道長は、胸を撫で下ろしたが、事は複雑で係争はさら深刻化していく。
実は興福寺はもともと藤原氏の氏寺だったが、道長の代になると荘園を巡って対立する関係になっていた。
そのため道長は、源頼親を大和守に任命し、興福寺の荘園拡大を抑制しようとしていた。
源頼親は源満仲の次男で、満仲は「安和の変」を仕組んで源高明を失脚させ、道長の父・藤原兼家に加担した人物である。
また頼親の異母兄は、酒呑童子を退治した伝説で有名な源頼光である。
さらに頼親自身も大和源氏の祖となっているが、同母弟で三男の源頼信は河内源氏の祖として、鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系の祖先となっている。
頼親たちは藤原氏から官位を得て、それなりに栄えていたが、やがてさらに旨味のある悪徳受領として、地方で巨万の富を蓄えていく。
大和守となった頼親は、郎党の当麻為頼に命じて、平気で殺人を命令して過酷な税の取り立てをした。
そのため道長は「御堂関白記」に、源頼親を「殺人の名人」と記して警戒しはじめている。
そして次に道長は、源頼親が乱した治安を鎮めるため、家司の藤原保昌を1013年長和2年に大和守に任じている。
保昌は、道長の有力家司の一人で,武勇にすぐれていたが、暴力や殺人なども厭わないというダーティーな部分も兼ね備えていた。
道長は「毒をもって毒を制す」ということわざ通りに、当麻為信らが利権を貪る大和国に、藤原保昌という野獣を放ったのである。
保昌は、夜の都大路で大泥棒の袴垂保輔でさえ、威圧して恐れさせたという逸話を持つ人物である。
そして藤原保昌は、中宮彰子の女房で、紫式部と同僚の和泉式部の夫でもあった。
保昌は、郎党の一人で清少納言の実兄である清原致信に、当麻為信の殺害を命じて実行させている。
すると数年後の1017寛仁元年3月8日の白昼、清原致信は、洛中の自宅で十数人の騎馬武者に突然襲われて殺されている。
この時、宮廷を去って出家して兄と同居していた清少納言も、事件に遭遇したが、女性であったために命だけは助けられている。
この事件の関係者である清原致信と藤原保昌は、清少納言と和泉式部という、ともに有名な女流歌人の身内だったのである。
検非違使の調べによれば、当麻為信殺害の報復のため、源頼親の指示する十数人の騎兵と歩兵に、清原致信は襲われ殺害されたという。
以上のような争乱がやがて日本各地で頻繁に起こりはじめ、貴族の平安の世から、次第に武士の戦乱の時代へと移っていく。
平安時代も後期になると、次には藤原氏の氏神を祀る神社として奈良の春日大社が実権を手にし、大和国のほとんどの荘園を領した。
そして春日大社が事実上、大和国を支配し、盛時には百以上の塔頭があった。
また、多くの僧兵を抱えた春日大社に、さすがの源頼朝も大和国に守護を置くことができなかったという。
藤原道長と紫式部が生きた時代は、事件は多かったが、女流歌人が生き生きと活躍出来る、平和な時代でもあった。
ところが、平和な時代から戦乱の時代へと移行する手助けを、清原致信や藤原保昌が果たしている。
はからずも平安を代表する女流歌人の身内の者が、平安から争乱へと導く役割を果たしたというのは、なんとも皮肉な話である。
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