紫式部には、実はあまり知られていないが、死んだ夫藤原宣孝の兄説孝に、妻の明子という兄嫁がいた。


そして紫式部は、宣孝の生前中に散々明子にいじめられた復讐劇を、約10年以上に渡って繰り広げるのである。


紫式部vs.兄嫁の壮絶な戦いを、詳しく見ていこう。


紫式部が書いた「源氏物語」には約500人と言われる人物が登場するが、そのほとんどが仮名で本名は明かされていない。


ところが例外的に実名で登場するする人物が、数名存在する。


その一人が源典侍、つまり紫式部の兄嫁・明子で、天皇付の最高位の官女であった。


紫式部の本名は藤原香子だと言われているが、998年長徳4年頃に藤原宣孝と結婚している。


宣孝には同母兄で播磨守の説孝がいたが、その妻明子が宮中で天皇付きの最高位の女官となって、源典侍と呼ばれていた。


源典侍は、紫式部が宣孝の妾で身分の低い受領の娘であることから、何かにつけて意地悪をしたり、執拗にいじめたようである。


紫式部は結婚した翌年には長女の賢子を生んでいるが、宣孝は結婚して3年後の1001年長保3年に急死してしまう。


紫式部は賢子と取り残されるが、宣孝の葬儀にも参列できず、財産の分与にもあずかれなかったようである。


紫式部は宣孝を亡くした痛手に苦しんでいる時に、源典侍たちにひどい仕打ちを受けたことを生涯忘れることはなかった。


この時、宣孝の長男・隆光などは、紫式部に「養ってやるから、俺の妾になれ」と迫っている。


どうも夫宣孝の家族は、紫式部に取ってはひどい仕打ちをする人間が多かったようである。


紫式部は身内のひどい仕打ちに耐えながら、物語を書いて生きていくことを決意している。


やがて紫式部が書いた「源氏物語」が宮中でも評定となり、彼女は藤原道長の要請で中宮彰子の女房として出仕することになる。


宮中に上がれば、紫式部は兄嫁の源典侍が、あまり好ましくない評判を得ていることを知るのである。


源典侍はすでに四十代後半でありながら、浮気者の色好みで知られ、様々な男と浮き名を流していたのである。


女官には上から「典侍」「掌侍」「命婦」という階級があり典侍は最高位である。


そして源典侍は、最高位の女官であることをいいことに、年甲斐もなく宮中で男漁りの日々を過ごしていたのである。


紫式部は源典侍が兄嫁だと言われることが恥ずかしいくらい、肩身の狭い思いをしたようである。


一方紫式部が彰子に仕えて、「源氏物語」を執筆すると、一条天皇も興味を示した。


物語を読みたい一心で彰子の元へ通っていた天皇だが、やがて彰子と床をともにするようになる。


紫式部が出仕して二年後に、彰子は懐妊して、一条天皇の第二皇子である敦成親王を出産する。


さらに翌年には、敦良親王が生まれ、一条天皇や道長の喜びは大変なものであった。


特に道長は二皇子の誕生は、紫式部が書いた「源氏物語」のおかげだと彼女に大いに感謝している。


そのため道長はそれまでに書き終えた「源氏物語」に豪華な装丁を施して、紫式部の苦労に報いている。


中宮彰子の女房として確固たる地位を宮中に築いた紫式部は、この時ふと昔のことを思い返したに違いない。


そして宮中で好色だと話題になっている兄嫁の源典侍に、紫式部が宣孝を亡くして一番苦しんでいる時に受けた筆舌に尽くせない仕打を思い出す。


復讐するなら、今しかない、と考えた紫式部は、「源氏物語」に源典侍を実名で登場させ、彼女の好色ぶりを公にさらすのである。


紫式部は筆を用いて、過去にいじめられた兄嫁に壮絶な復讐劇を始めるのである。


「源氏物語」に存命中の人物が実名で登場するのは源典侍をはじめ、ほんの数人である。


紫式部は「源氏物語」のストーリーに関係なく、何ヵ所にも男を追いかけ回す典侍を、突然に登場させるのである。


源典侍は光源氏の父・桐壺帝に仕える老女房として登場するが、桐壺帝は醍醐天皇がモデルだといわれている。


醍醐天皇はすでに70年以上前に亡くなっていたが、実際の典侍は一条天皇に仕える現役の女房である。


そして物語の中で色好みの老女房・源典侍は、年齢だけは実際よりも10歳ほど年上の60歳前に設定されている。


そして物語で典侍は、孫のように年の離れた20歳前の光源氏をしつこく何度も追いかけ回して誘惑する。


ところが女性には目がない光源氏も、色好みの老婆である源典侍には、何の魅力も持たず見向きもしない。


すると源典侍は、ある夕暮れ時に、琴を奏で、音色に誘惑された光源氏は、つい彼女の局へ導かれてしまう。


そして光源氏は、不本意にも源典侍と肉体関係を持ってしまうのである。


典侍の局に入って行く光源氏を見た頭中将は、彼を懲らしめてやろうと夜更けに典侍の局に潜りこむ。


頭中将が刀を抜いて脅して見ると、典侍があられもない格好で「我が君!我が君!」と手をあわせて許しを懇願する。


その典侍の無様な格好は、見られたものではない、と紫式部は物語で彼女を散々にこき下ろすのである。


光源氏はこれに懲りたが、典侍は懲りることなく嫌がる源氏を追いかけ回わし、その後も物語に度々登場するのである。


もちろんこれは典侍が実際に宮中で若い貴族と行っていた行状だが、それが天皇をはじめ宮中の皆が読む「源氏物語」に実名で登場するとなると、少し話は別となってしまう。


源典侍は、たちまち宮廷中で一番の有名人となるとともに、年甲斐もなく若い男を追いかけ回す彼女は、皆の笑い者となった。


天皇付きの最高位の女官という事で、今までは黙認されていたが、公となっては、さすがの典侍も宮廷にいたたまれなくなる。


1007年寛弘4年5月、ついに一条天皇と藤原道長に典侍は、辞表を提出している。


しかし彼女を辞めさせるとさらに問題が大きくなると考えた天皇と道長に慰留された典侍は、1018年寛仁2年まで、羞恥に耐えながら約10年以上も宮仕えを続けている。


紫式部は源典侍を執拗に「源氏物語」に実名で登場させることによって、積年の恨みを十二分に晴らしたのである。


我々は紫式部を、彼女の描かれた巻物などからどちらかと言えば大人しい内向的な女性だというイメージを持っている。


しかし、実際の紫式部の以上のような行動を知ると、全く違った印象を彼女に持つのではないだろうか。


よく考えてみれば、世界最古の長編物語を千年以上も前に書いた女性が、普通の大人しい女性であるはずはない。


そんな異才の女性が書いた物語だからこそ、「源氏物語」が千年以上も世界各国で読み継がれているのである。


彼女は外見はともかく、「やられたらやり返す」という、男性以上に強い精神力を持った女性だったのである。


もちろんドラマにはこのような話は登場しないだろうが、実際の紫式部はだからこそ時の最高権力者・藤原道長と対等に渡り合うことが出来たのである。


当時はペンではなく筆だが、紫式部は子育てをしながら、筆一本で平安時代に世間の荒海を生き抜いた女性である。


「ペンは剣よりも強し」という格言は、千年以上前からやはり真実だったようである。

【紫式部と兄嫁】ユーチューブ動画