紫式部は執筆した「源氏物語」が評判になり、藤原道長から中宮彰子の女房になるよう要請される。

しかし自由のない宮中生活を嫌う彼女は、宮仕えへの返事を渋っていたがついに断りきれなくなった。

紫式部の宮仕えを詳しく見ていこう。

夫藤原宣孝を亡くした彼女は、父藤原為時の庇護を受けながら一人娘の賢子を育てていた。

母や夫など大切な人を亡くした紫式部は、世の無常を痛感し、その思いを物語として執筆していた。

読後の感想が知りたくて友人にだけ物語を見せていた彼女だが、物語はたちまち宮中でも話題となった。

特に文学好きの一条天皇は、「源氏物語」に強い興味を示したという。

ちょうどそのころ、娘の彰子のもとに一条天皇を引き寄せるために優秀な女房たちを集めていた道長と妻の倫子が紫式部に目をつけた。

道長と倫子は、共に紫式部のまたいとこで、家も隣同士であった。


どちらかといえば内向的で、人と接するのが苦手な紫式部は、道長たちの出仕要請への返事を先延ばしにしていた。

紫式部は日記に「源氏物語」を書いたことがきっかけで宮中にスカウトされるが、喜ぶどころか「私なんて宮仕えに向いてない」と弱音を吐いている。

そして宮中では、出る杭は打たれるから目立ちたくない、人付き合いは苦手でツラいなどの愚痴が綴られている。

しかし道長は父の為時や弟の惟規、そして最後には死んだ夫宣孝の長男・隆光にまで手を伸ばして出仕するよう迫った。

紫式部の心にも変化が現れ、宮中に上がって新たな物語を書いてみたいという欲望が生まれてくる。

そのため紫式部は、1006年寛弘3年の師走、ついに内裏へ出仕することになった。

彼女の弟・惟規は翌年に蔵人に任命されているが、これも紫式部の宮仕えのおかげだと考えられる。

中宮彰子のもとには50人近い女房たちが仕えていたが、紫式部は彼女たちの冷たい視線を一斉に浴びることになる。

というのも、一条天皇は「源氏物語」の作者が、日本紀(日本書記)の知識もある優れた人物だと高く評価していたからである。

すると一番上の位の左衛門内侍という人が早速紫式部に「日本紀の御局」というあだ名をつけてからかっていたのである。

紫式部は具体的にどのようないじめを宮中で受けたのかを記録していないが、当時はかなり辛辣ないじめが行われていたようである。


身分の低い者が自室から天皇や中宮のもとに行ことすると、廊下に小石や、時には汚物までまかれたという記録が残っている。

紫式部は初日から宮中でのいじめの洗練を受け、年が明けると約5ヶ月間にわたり、出仕拒否症となっている。

「受領の娘が生意気に物語などを書いてお高く止まっている」と言う陰口が耳に入り、神経をすり減らしたのである。

再び出仕した紫式部に、相変わらず女房たちの視線は冷たかった。

そこで彼女が考え出したのが、「ばかで間抜けな人間になりきる」と言うことであった。

女房たちは紫式部が、漢詩や和歌の豊かな知識や才能を持っていることに敵意を抱いていた。

そのため彼女は「一と言う漢字も知らない」という無知ぶりを装ったのである。

この作戦は見事に成功して、それ以後紫式部はいじめられなくなったという。


紫式部は、中宮彰子に奈良の興福寺から桜が送られて来た時も、受け取り役を若い伊勢大輔に譲っている。

伊勢大輔がこの時詠んだ歌が

「いにしえの奈良の都の八重桜

  けふ九重に匂ひぬるかな」である。

紫式部は控えめに行動しながら、まわりの女房たちにあわせてなんとか溶け込むことを覚えたのである。

のちに娘の賢子が成人すると、紫式部は娘を同じく彰子の女房として出仕させている。

女性が一人で生きていくためには、不本意であっても宮中で働く以外に選択肢はなかったのかも知れない。

結局、紫式部が出仕した2年後に、彰子は一条天皇の皇子敦成親王を、さらに3年後には敦良親王を生んでいる。

紫式部は宮中生活に苦しみながら、見事道長と倫子の期待にこたえた。

そして紫式部は宮中でのいじめなどの経験を、余すことなく「源氏物語」の中に綴り、世界的名作が完成させたのである。


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