藤原斉信の最期を詳しく見ていこう。
藤原斉信は967年康保4年に太政大臣・藤原為光の次男として生まれ、道長とは1歳下の従兄弟同士の幼馴染で、若い頃から仲がよかった。
次男として生まれた斉信だが、品格や人望に優れていたため道長によって高い役職に次々と抜擢される。
ところで斉信の兄・誠信は、1001年長保3年に欠員ができた権中納言への昇進を望んだ。
そのため誠信は、あらかじめ弟の斉信に対し自分を出し抜いて昇任申請をしないよう言い含めている。
ところが、誠信の能力に疑問を抱く道長の後押しを受けた斉信が権中納言に任ぜられた。
弟の斉信に裏切られたと考えた誠信は、道長と斉信を深く恨み、憤激して絶食を続け噴死している。
藤原斉信は、兄を噴死させて出世した男である。
ところで藤原斉信はイケメンで有名で、清少納言とは親しい関係にあったと言われている。
斉信は容姿の美しさだけでなく、和歌や漢詩、管絃にも長けており、当代随一の文化人として有名であった。
そのため斉信は、多くの女房たちとも歌を交換するなどして、浮き名を流している。
その後も斉信は道長の腹心の一人として一条天皇の治世を支え、藤原公任・藤原行成・源俊賢と共に一条朝の四納言と称された。
中でも斉信は、公私に亘る漢詩の会に熱心に参加し、同じく漢詩を好んだ道長が開催した詩会の常連であった。
そのため斉信は道長と長時間、作詩に没頭するといった仲のよさであったため、藤原実資は、二人のあまりの仲のよさをやっかみも交えて「馴れ合い」だと批判している。
斉信はさらに権力者の道長に近付こうと、道長の六男・長家の妻が死去すると、まだ半年しか経っていない長家に、愛娘を後妻に迎えるよう望んでいる。
長家は最初は前妻の死から間もないため承知しなかったが、最終的に長家は斉信の娘婿となり、婚礼の儀が盛大に執り行われている。
斉信の愛娘は長家の子を懐妊するが、妊娠中に赤裳瘡、麻疹に罹り、子を死産したのちみずか らも亡くなってしまう。
夫長家の悲嘆もさることながら、両親の斉信夫妻の戸惑いようはひとしおであった。
斉信と妻は、ただひとりの女子であった娘を、まるで懐に入れるようにして大切に育てて来たからである。
当時は火葬するのが普通であったが、娘の遺体は斉信たちのたっての希望で土葬にされている。
娘を亡くした斉信の悲嘆は甚だしく、法要では言葉を発することができず、力を落として歩くことすら困難な様子であったという。
晩年になると斉信は、道長が湯治で有馬温泉に行くことになると、突然斉信も調子が悪いと言いだし一緒に湯治についていったという。
1021年治安元年以降は、唯一の正官の大納言であった斉信は大臣への任官を強く望んだ。
太政大臣・藤原公季が死去した後も太政大臣の後任は立てられず、その後も高齢の右大臣・藤原実資は90歳近い長寿を保った。
そのため左大臣・藤原頼通、内大臣・藤原教通との3人の大臣体制が長く続いたため、ついに斉信の大臣任官は叶うことがなかった。
藤原斉信は1035年長元8年3月23日、69歳で逝去しているが、病に苦しむことなく没したという。
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