藤原頼通は道長に明子の子どもたちよりも優遇されて育ったが、結果的にはそれが藤原氏の摂関政治を終焉させる原因となった。


藤原頼通の最期を、詳しく見ていこう。


源倫子の子である頼通と教通は、源明子の子・頼宗や能信らよりも昇進の面で明らかに優遇された。


道長が倫子の子どもたちを優遇した理由は、倫子が土御門邸など莫大な財産を引き継ぎ、その財で道長が権力基盤を整えること出来たからだと言われている。


しかしこのどちらかといえばわかりにくい待遇での差別が、一家や兄弟同士の結束力を緩めて行く。


また道長は思い込みの強い性格で、男の将来は妻で決まると信じていた。


そのため自分を最高権力者に押し上げた倫子を、生涯敬うようにあつかったと言われている。


村上天皇の第七皇子である具平親王から娘隆姫女王を頼通の室にさせたいとの申し入れに、道長は飛び上がらんばかりに喜んだ。


そして道長は、この高貴な姫と頼通の縁談を「男は妻がらなり」と言って人々に自慢している。


しかし美女で文才もあった隆姫は頼通と仲睦まじかったが、数年たっても子に恵まれなかった。


すると道長との関係修復を図ろうと、三条天皇が第二皇女の禔子内親王の降嫁を申し出た。


道長は喜んで同意したが、隆姫のみを愛する頼通はこの縁談を不服とした。


すると道長は「男子がなぜ一人の妻で止まるのか。しかも子がないのに」と頼通をしかっている。


道長は人々の面前でも頼通を大声でしかったようで、頼通は不始末から勘当の処分を数回受けている。


そのためか、頼通は有職故実に通じた当代の学識者だった小野宮流の藤原実資に師事して親交を結び、道長への批判者だった実資もまた頼通には好意を持っていた。


道長にしかられた御曹司と、政権から見放されたかつての御曹司は、何かと気が合ったようである。


さすがの実資も、頼通との間でどのような会話がなされたのかは「小右記」に書き残してはいない。


結局、道長の圧力に屈した三条天皇が、自分の皇子である敦明を東宮にする事で敦成親王に譲位する。


後一条天皇が誕生すると、外祖父の道長が摂政となるが、翌1017年長和6年には26歳の頼通に譲り、頼通が最年少の摂政となっている。


道長は頼通への権力委譲をさらに進め、1019年寛仁3年に頼通は関白となり、1021年治安元年には左大臣に転じている。


この間に道長は、後一条天皇に三女の威子を入内させ中宮となしている。


また東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)にも入内させた末娘の嬉子に親仁親王(後の後冷泉天皇)が授かる。


その結果、道長が死んだ後も父による将来への布石は実を結びつつあった。



1036年長元9年、後一条天皇の死去により、同母弟の後朱雀天皇が即位しても、引き続き天皇の外叔として頼通が関白に就任している。


しかし子女に恵まれない頼通は、やむなく正妻隆姫の縁で敦康親王の娘の嫄子を養女として後朱雀天皇に入内させて皇后としている。


頼通は天皇の外戚であり続けるために、一人娘の寛子を後冷泉天皇へ嫁がせた。


しかし期待していた男子には恵まれず、これが摂関政治の終焉につながったとされている。


1051年永承6年、陸奥国で前九年の役が勃発して地方の世情が不安となる。


しかし道長の後継として長年関白を務めた頼通の権勢は表面的には衰えなかった。


頼通は1052年永承7年3月、道長の別荘であった宇治殿を現代に残る壮麗な平等院鳳凰堂に巨額の費用を費やして改修している。


頼通は父親の道長と同じように、極楽浄土での往生を願って、阿弥陀如来の姿を心に描いて鳳凰堂を建てたと言われている。


1068年治暦4年3月、後冷泉天皇が危篤となり、長年冷遇してきた皇太子尊仁親王(後三条天皇)の即位がもはや避けられないことが明らかになる。


4月19日に後冷泉天皇が崩御すると、頼通は現実の厳しさから逃れるようにして宇治の平等院へと移り住んでしまう。


後一条、後三条、そして後冷泉と関白を務めた3人の天皇が亡くなると、自分の影響力が急激に低下する事を頼通は知っていた。


ところで倫子と明子の子どもたちは、表面的には平穏を装っていたが、両者の対立が摂関政治の終焉を早めさせることになる。


1045年寛徳2年、病に倒れた後朱雀天皇から、親仁親王(後冷泉天皇)の次代の東宮に尊仁親王(後三条天皇)が望まれた。


尊仁親王は、道長の曾孫ではあるものの藤原氏を外戚としない親王であった。


そこで親仁親王に男子が誕生した際に皇位継承を巡って紛糾するとの建前で、頼通は東宮を立てるのは時期尚早であると反対した。


これに対し、頼通とは反りが合わない明子の子で異母弟の権大納言能信が反対する。


能信は「いま尊仁を立太子させなくていつするのか」と後朱雀天皇に迫って決意を促した。


そのため後朱雀天皇は尊仁を皇太子にする、との遺命を残して死去した。


道長の曾孫ではあるものの藤原氏を外戚としない尊仁親王が、後継者となる。


後三条天皇と白河天皇が後を継ぐことによって藤原氏の摂関政治から院政へと時代は移り変わって行く。




頼通は実子師実に摂関を伝えることを強く望んだが、頼通の次の摂関の職は教通との道長の遺言を理由に上東門院彰子に拒絶され、やむを得ず教通に譲った。


後冷泉天皇の死により、即位した後三条天皇は、藤原氏とは直接の血縁がない天皇であった。


そのため年も35歳と若く25年の長い東宮時代を耐えた天皇は、意欲的に国家財政の改革に着手した。


天皇は荘園整理令を出すと、藤原氏ら権門の荘園も審査の対象となり、藤原氏の経済力は急速に衰えた。


頼通は1072年延久4年4月に出家しているが、この年の12月、後三条天皇は在位4年で皇太子貞仁親王(白河天皇)に譲位した。


1074年延久6年、藤原頼通は83歳で逝去する。


摂関政治の全盛期をともに担ってきた姉の上東門院彰子、弟教通も同年から翌年にかけて相次いで死去する。


そして時代は藤原氏の摂関政治から、白河天皇が譲位した後に開始した院政の時代へと急激に移っていくのである。


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