藤原道長は娘の彰子が、一条天皇の皇子をなかなか懐妊しないことに業を煮やして、決死の金峯山詣でを決行した。


それからの道長を、詳しく見ていこう。


1007年寛弘4年夏、中宮彰子が19歳に達すると、藤原道長は一条天皇との皇子懐妊を願って金峯山詣でを敢行した。


金峯山詣でとは、大和国吉野の金峯山寺に参詣することで、平安時代には貴族たちの間にも流行していた。


紫式部の夫だった藤原宣孝も、嫡男の隆光と派手な装束で金峯山詣でを行ったため、清少納言に「枕草子」で次のように酷評されている。


「御嶽精進(金峯山詣で)は、どんな高貴な身分であっても質素な身なりで参詣するものと聞いていた。」


「ところが右衞門佐宣孝という人は、そんな言い伝えはつまらないことで、質素な衣を着て参詣しても、大した御利益もない。」


「権現さまも、必ず質素な身なりで参詣せよ、とはおっしゃらないだろう、と言って、濃い紫の袴に白い狩衣という派手な衣で参詣した。」


「息子の隆光には、青色の狩衣、紅の衣、それに乱れ模様をすりだした袴を着せて参詣している。」


「そのため吉野から帰る人々は、このお山で、このような姿の人を見たことがない、と驚き嘆いた。」


「ところが宣孝は4月1日に帰京し、6月10日頃には筑前守に任官され、彼の言ったとおりになった、と評判になった。」


清少納言は、以上のように宣孝のことを「枕草子」に綴っている。


そのため後世には、紫式部がこの文書を読んで、自分の日記に清少納言をけなしたため、二人は仲が悪かったという逸話が生まれている。


ところで道長は紫式部を、彰子の教育係の女房としてこの頃に採用している。


そして一条天皇は、紫式部が書く「源氏物語」読みたさに、彰子の部屋へ通うようになっていた。


彰子が、一条天皇の皇子を宿す可能性が出てきたのである。


では道長の金峯山詣でがなぜ決死だったかといえば、当時都では、藤原伊周が道長を暗殺しようとしているという噂が流れていた。


また元々病弱な道長は、ここ数年体調を崩して引退や出家まで考えていたほどである。


もしも道長を亡きものにすれば、定子の忘れ形見の敦康親王が東宮となり、伊周が復権することは十分に可能であった。


そのため道長の金峯山詣では、途中で倒れたり襲われる危険性があり、まさに決死の行動だったのである。


道長の金峯山詣でが実を結んだのか、その年の暮れ頃、彰子に懐妊の兆しが見られた。


しかし外に漏れて呪詛などされないように、懐妊は極秘にされた。


そして翌1008年寛弘5年9月11日昼頃、彰子は皇子の敦成親王を出産している。


その時、道長は紫式部に、彰子の出産の模様を克明に書き残すように命じている。


女性でなければ、出産の現場には立ち会えず、詳しい状況が記録出来ないからである。


「紫式部日記」には、「御物怪がくやしがってわめきたてる声の中」の出産であったと書かれている。


この紫式部の表現から、伊周をはじめ多くの者たちが、彰子の出産を呪詛していたことがわかる。


道長は諸卿に「神仏の加護によって皇子が生まれ、喜悦の心はたとえようもない」と喜びを語っている。


一条天皇はわが子と対面するために、土御門邸の彰子を訪ねたのは誕生の一ヶ月後であった。


敦成親王の誕生50日を祝う儀式では、右大臣の藤原顕光が酩酊して、几帳を引きちぎり女房の扇を取り上げたりしている。


また紫式部は泥酔している道長を見て危険を感じ、几帳の後ろに逃げようとしたが見つかって、道長に命じられるままに、一首を詠じている。


この時、道長があまりにも紫式部と親しくする姿を見て、倫子は気分を害したのか席を立ったため、道長が慌てて後を追うという珍事も起こっている。


時の最高権力者となった道長も、正妻の倫子だけには頭が上がらなかったようである。


そしてこの敦成親王の出産によって、定子が生み残した敦康親王が東宮になる可能性はほぼなくなった。


更に1009年寛弘6年に彰子は再び懐妊して、11月彰良親王を出産する。


彰子が二皇子を生んで、まさにわが世の春を迎えた道長に、嫡男頼通の高貴な縁談が舞い込んだ。


村上天皇の第七皇子である具平親王から、娘の隆姫女王の婿に頼通をと言うめでたい話である。


道長はこの縁談を聞いて思わず「男は妻がらなり。いとやんごとなきあたりに参るべき」と叫んだ。


男の価値は妻次第で決まるもので、たいへん高貴な家に婿入りするのがよい、と言う意味である。



しかし頼通は、隆姫女王と結婚してから6年後の1015年長和4年になっても子どもが出来なかった。


三条天皇からは娘の二の宮との縁談があったため、道長が頼通にすすめた。


すると隆姫女王を愛する頼通は、道長のすすめた縁談に良い返事をしなかった。


道長は涙を浮かべる頼通に、「一人の子もいないのに、一人の妻に執着するとはどうかしている」と吐き捨てるように言って怒った。


摂関政治の継続を最優先させる父親と、妻への愛を優先させる息子の対立がこの時すでに起こっていた。


親子で事業を継続していく上で、必ず生じる先代と後継者との意識のずれである。


摂関政治の全盛期を迎えた藤原道長は、以後その継承と、自らの病の悪化に苦しむことになるのである。


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