紫式部は夫の藤原宣孝を喪うと、宣孝の嫡男・隆光をはじめ多くの男たちに言い寄られ苦労した。


それからの紫式部を、詳しく見ていこう。


紫式部は998年長徳4年ごろ、親子ほども年の差がある又従兄妹の山城守・藤原宣孝と結婚する。


翌年には一人娘の賢子をもうけるが、宣孝には紫式部以外にもこの時すでに少なくとも3人の妻と6人の子どもがいた。


そして長男の隆光は、すでに紫式部よりも2歳ほど年上の年齢になっていた。


1001年長保3年4月15日、宣孝は疫病か、それとも持病が悪化したのか急死する。


しかし紫式部は妾のため、正妻からは宣孝死去の連絡だけが届き、恐らく葬送にも参列出来なかったと思われる。


紫式部はまだ幼い賢子を抱え、途方にくれたが、そこへ宣孝の長男の隆光が訪ねてくる。


三十歳を過ぎたばかりの隆光は、六位の蔵人に取り立てられたばりで自信にあふれ、調子づいていた。


あろうことか隆光は紫式部に言い寄り、自分の妾にならないかと口説いたのである。


当時は親が死ぬと、その息子の妾になるという話は、ままあったようである。


しかし義理の息子に言い寄られた紫式部は、衝撃を受け世の無常を感じ、改めて夫を亡くした寡婦の哀れみを実感する。


一方、越前へ赴任していた父・為時は、任務であった松原客館の宋商人たちを帰国させることが出来ず、国司の任をとかれてしまう。


宣孝が亡くなった年に再び職を失って帰京した為時だが、紫式部にとっては力強い味方であった。


紫式部は生涯に多くの歌を詠んだが、夫を亡くした悲しみに浸った歌が全くない。


知的な彼女は、悲しみを次の前進へと変えることが出来る、賢い女性だったようである。


父為時といっしょに暮らすことで、路頭に迷うことから救われた紫式部は、以前から構想を暖めていた物語の執筆に取りかかる。


未亡人には文を出して言い寄るのが当時は普通で、隆光に言い寄られた経験などを、紫式部は「源氏物語」の中に綴ることで生かしていく。


言い寄る男は多かったようだが、紫式部は物語の執筆と、宣孝の忘れ形見の娘・賢子の教育に力を注いだ。


この頃の紫式部が詠んだと思われる歌には「若竹の生ひゆく末を祈るかなこの世を憂しと厭ふものから」というものがある。


意味は、若竹のようなこの子が健やかにこの先も成長していくことを祈る。私自身はこの世を嫌だと思うのに、である。


そしてこの歌の詞書には「世を常なしなど思ふ人の、幼き人の悩みけるに、から竹といふもの瓶に插したる、女ばらの祈りけるを見て」とある。


「世を常なしなど思ふ人」(世の無常を感じている人)というのは、紫式部自身のことだ。


幼い頃から母や友人など、様々な人々を失ってきた紫式部は、愛する娘の病気回復を祈りながらも、命ははかないものだと覚めた目で見ていた。


そして紫式部は、突然夫を病で亡くして痛感した人生の無常や人間の儚さというものを、文章化したいと考えたのである。


そんな時に、幼い我が子・賢子が病気になったため、平癒のまじないに、竹を瓶に插す。


その瓶を前に、紫式部の家の女房たちが祈祷する情景が、この詞書から浮かんでくる。


「源氏物語」の構想はよく石山寺で練られたと言われるが、多くは為時の館で書かれたようである。


現在、廬山寺となっている紫式部の自宅は、鴨川の堤にある、自然豊かな環境にあった。


決して裕福ではなかったが、豊かな自然と暖かい家庭、そして紫式部の溢れ出る感性が次々と「源氏物語」を産み出していく。


縁戚関係にあった藤原道綱の母が書いた「蜻蛉日記」に、大きな影響を受けた紫式部は、今までにない赤裸々で現実的な物語を書いていく。


また紫式部は、道綱の母の一人の男に縛られた生き方を反面教師に、自由に生きようとしたとも思われる。


紫式部は物語の出来栄えを知りたくて、最初は友人や知人だけに「源氏物語」を読ませたという。


今までには全くない、仮想か現実かを見まがう「源氏物語」は、たちまち公家たちの間で評判となる。


そして人々は物語の登場人物が、実際には誰なのかを想像して噂しあった。


ちょうどその頃に藤原道長は、定子を亡くした一条天皇が、娘の中宮彰子に見向きもしないことに悩んでいた。


道長と妻の倫子は、紫式部とは共に又いとこで、家も近所同士であった。


道長と倫子は、すぐに紫式部に面会して、彰子の教育係の女房になることを要請している。


自由に生きたいと考えていた紫式部は、最初は窮屈な宮中に出仕することを望まなかった。


その彼女が考え方を変えたのは、やはり娘・賢子の将来を考えてのことだったに違いない。


父親に定職がなく、幼い頃に経済的に苦労した紫式部は、我が娘に同じ苦労をさせたくないと考えた。


三十歳を過ぎて、慣れない宮中へ上がることはつらかったが、紫式部は1006年寛弘3年頃に、中宮彰子の女房となっている。


彼女は女房たちの嫉妬ややっかみに耐えながら、一条天皇も愛読する「源氏物語」を書き続けた。


そして紫式部は、18歳になった彰子に、和歌はもとより漢詩や歴史などあらゆる学問と教養を伝授していく。


素直で頭の良い彰子は、紫式部からどんどん吸収して、教養豊かな女性へと成長する。


最初は「源氏物語」と珍しい「唐物」見たさで、彰子の部屋へ通っていた一条天皇も、女性らしく成長する彰子に徐々に引かれていく。


そして紫式部が出仕した二年後には、道長が待望していた敦成親王(のちの後一条天皇)が生まれるのである。


【それからの紫式部】