藤原彰子が一条天皇に愛されたきっかけは、彰子の女房・紫式部が「源氏物語」を書いたためだが、他にもう一つの大きな理由があった。


それは、藤原道長が一条天皇のために、当時「唐物」と呼ばれた中国からの輸入品を多量に用意したためであった。


彰子が一条天皇に愛された理由を、詳しく見ていこう。



道長や紫式部が活躍した時代、基本的に唐物は、宋商人の船でまず九州の博多にもたらされた。


紫式部が父藤原為時と越前へ赴任して知り合った朱仁聡も、宋商人の一人である。


当時の博多では鴻臚館という公館を中心に、朝廷による貿易の管理がおこなわれていた。


鴻臚館は飛鳥・奈良・平安時代の外交施設で、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として使用された。


そしてその実務を現地で担当したのが、大宰府の役人たちだったのである。


宋商人の貿易船に 積まれてきたさまざまな唐物はまず、大宰府の役人によって検査を受ける。


その後すぐに大宰府は、宋商人の来着を朝廷・天皇に報告し、宋商人たちの滞在・貿易の可否について指示をあおいだ。


このとき同時に、積荷全体の内容も報告されたが、多くの大宰府の役人は報告をごまかして暴利をむさぼった。


紫式部の夫・宣孝とその父親や甥っ子は皆大宰府の役人となったが、そのため羽振りが良かった。


大宰府の役人は、唐物を天皇への献上品と交易品に振り分け朝廷へ報告する。


この結果、博多での滞在・交易を許された宋商人に対して は、朝廷から唐物使と呼ばれる使者が派遣される。


そして唐物使は、交易の管理と「先買」と呼 ばれる優先的な買付けをおこなう。


貴族も含めて交易を希望する人々は、この朝廷による「先買」ののちはじめて、交易を許されることになる。


博多での交易管理と優先的な買付けを終えた唐物使は、優先的に買付けた品をたずさえて都に帰還する。


そしてこれをうけて内裏では、「唐物御覧」と呼ばれる儀式がおこなわれる。


宋商人たちはこの時天皇に献上品を差し出すことで、日本での安全かつ安定的な交易が天皇によって保証される。


日本史では長く、菅原道真が遣唐使を廃止したため、平安時代中期には中国と朝廷との交易がなかったと信じられてきた。


しかし大宰府を拠点に、以上のような貿易が朝廷と宋商人の間で盛んに行われていたのである。


ところで、道長の「御堂関白記」には、道長が天皇や他の貴族たちと頻繁に 唐物をやりとりしていた様子がうかがえる。


そこには、中国産の高級絹織物などをはじめとするさまざまな品物が登場し、唐物が道長の生活や政治と深いかかわりをもっていたことを推測させる。


一条天皇は、大江匡房が著した 「続本朝往生伝」のなかでも、「学問・文章・詩などは並外れており、音楽についてもとび抜けてすぐれている」ときわめて高く評価されている。


そして左大臣となった道長は、一条天皇のもとに娘・彰子を入内させ、中宮としようと考えた。


しかし、一条天皇にはすでに複数の后妃がおり、そのなかでも中宮定子への 寵愛はとくに深かった。


道長は定子のサロンに負けないものをつくろうと、彰子のもとに赤染衛門や紫式部を呼び集めた。


そしてさらに道長は、一条天皇を引き付けるために唐物を効果的に利 用していく。


定子は、「枕草子」で知られる清少納言を女房にかかえ、唐の白居易の「白氏文集」などの漢詩文も学ぶというような、高い教養を身につけていた。



また「枕草子」には、定子の身のまわりにあったと考えられる、中国の高級絹織物の錦、沈香という東南アジア産の高級なお香など、第一級の唐物が登場する。


このような中国の文学にまで及ぶ教養や身のまわりのさまざまな高級な唐物は、まさに一条天皇の寵愛を一身にうける定子のステイ タスを象徴するものだった。


そんな定子も、兄の伊周が不敬をはたらいて中関白家が没落すると、やがて輝きを失い死去する。


道長は、彰子のサロンに定子をしのぐ唐物を用意し、一条天皇の関心をひきつけようとした。


そのために道長は、唐物を所有する他の貴族や貿易を管理する大宰府の役人に手を回している。


紫式部の夫・宣孝の甥っ子、そして宣孝本人も当時の唯一の貿易港博多がある大宰府の役人となったのはそのためだと考えられる。


さらには宋商人とも直接コンタクトを取るなど、道長は権力者として利用しうるさまざまなコネクションを使って、唐物を集めていったと考えられる。


「御堂関白記」には、貴族や宋商人などさまざまな人々が道長のもとに唐物を持参・献上している記事が散見される。

道長はそうして集めた唐物をどのように利用したのかが、「栄花物語」に次のように綴られている。


彰子の入内から一ヵ月後のある日、一条天皇が彰子の部屋を訪れたところ、部屋のなかには 数々のみごとな唐物の調度品があった。


そしてそこには、高い教養をそなえた一条天皇が、喉から手が出るほど欲しがった中国の書物が山のようにつまれていた。


その後一条天皇は、「源氏物語」と共に、中国の貴重な書物を読むために、毎日彰子のもとに通うようになったという。


彰子は大変賢明な女性で、一条天皇が中国の書物が好きだと知ると、紫式部にねだって漢文を教えてもらう。


すると一条天皇は、そんな教養あふれる彰子に興味を持ち、それが愛情へと変化して二人の皇子が生まれることになる。


すべては道長が、先の先を読んだ、まさに作戦勝ちだったのである。


彰子は後一条天皇と後朱雀天皇の国母となって、道長は摂関政治の頂点を極める。


藤原道長は軍事力を全く用いないで、権力を掌握することが出来る、現代社会にも通用する、まさに天才であった。

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