藤原行成の最期を詳しく見ていこう。
藤原行成は、藤原氏の主流である藤原北家の藤原義孝の長男として、972年天禄3年に生まれている。
祖父と父親を相次いで亡くしたため、行成の家は没落した。
そんな行成へ手を差し伸べたのは、母方の祖父源保光であった。
保光は中国史や漢学に造詣が深く、行成は保光から、多くの学問や知識を伝授されている。
やがて6才年上の道長が、そんな真面目で教養あふれる行成を見出だして抜てきする。
さらに源俊賢に一条天皇の蔵人頭へ推挙された行成は、細やかな気遣いで実務に能力を発揮、宮廷に欠かせない存在となっている。
特に文字の美しさでは右に出る者がおらず、行成はのちに小野道風、藤原佐理と三蹟に数えられ、和様書道の流派・世尊寺流の祖となっている。
生前から能書家として知られた藤原行成と道長の、次のようなエピソードが残されている。
ある時行成は、時の最高権力者であった道長から「往生要集」を借用しようとした。
すると道長から行成は、「原本は差し上げるので、あなたが写本したものを戴けないか」と言われたという。
行成の書いたものは、習字の手本とされるなど、非常に人気があったという。
また恩義にあつい行成は、蔵人頭に昇進する際、後任として行成を推薦してくれた源俊賢の恩を決して忘れなかった。
行成は生涯この恩に感謝し、のちに俊賢よりも出世したときも、決して俊賢より上座に座らなかったという。
そのため行成は、俊賢が出仕する日は病気と称して出仕を控え、やむなく両方が出仕する日は向かい合わせの席に着座したと言われている。
そんな行成の律儀さを道長は認め、権大納言という大臣に次ぐ高官位を与えている。
そして行成は、源俊賢、藤原公任、藤原斉信と共に、一条天皇の治世を支えた「四納言」と称された。
道長は行成が蔵人頭として彰子の入内と立后の際に、骨身を惜しまず活躍してくれたことに最大の感謝を表している。
彰子が入内した時、定子が敦康親王を生んだため、道長は精神的にダメージを受け、床に臥せることが多くなった。
その時、東三条院詮子と一条天皇の間を取り持って、「一帝二后」を実現させたのが行成であった。
道長はこの時、よほど嬉しかったのか、子孫の代にまで報恩を申し伝えると行成に述べている。
そしてこれ以来、道長と行成の親交は終生続いている。
行成は「権記」という日記を残しており、道長の「御堂関白記」、藤原実資の「小右記」とともに平安中期を知る上で貴重な資料となっている。
また行成は、清少納言の著作「枕草子」にもしばしば登場しており、気の合ったふたりが楽しく会話する様子が記されている。
そのため、行成と清少納言は恋人というよりも、文学好きの二人はプラトニックな関係だったと言われている。
行成は小野道風に私淑し、その遺墨にも道風の影響がみられる。
その追慕の情はかなり強かったらしく、「権記」に「夢の中で道風に会い、書法を授けられた」と感激して記しているほどである。
行成の書風は道風や佐理よりも和様化がさらに進んだ、優雅なものであり、行成は和様書道の確立に尽力した。
そして行成は、世尊寺流の宗家として、また平安時代の上代様といわれる書の完成者として評価されている。
行成の書は、存命の頃からすでに多くの愛好家に親しまれ、現存する書は大変貴重であることから現代では多くが国宝に認定されている。
藤原行成は1027年万寿4年の正月ごろから体調を崩し、左手の不調や乗馬に堪えないことを訴えている。
そして行成は、この年の12月1日に便所へ行く途中で突然倒れ、その後は会話・飲食ともできないまま、4日に逝去している。享年56であった。
なお奇遇だが、藤原道長はこの日の朝方に亡くなっており、行成がその夜に亡くなるという奇縁さであった。
洛中では道長の死で大騒ぎとなっており、行成の死については気に留めるものがほとんどいなかったとされている。
藤原道長を影で支え続けた、藤原行成らしい最期であった。