藤原公任は自分を光源氏に見立てて「この辺りに若紫はおいででしょうか」と「源氏物語」の作者・紫式部を訪ねた。


当時はまだ藤式部と名乗っていた彼女の名前を、紫式部と変えさせた名付け親こそ藤原公任なのである。


藤原公任のその後を、詳しく見ていこう。


藤原公任は関白・藤原頼忠の長男で、母は醍醐天皇の孫という血統の良さであった。


公任は若い頃から文芸全般に優れ、百人一首には「滝の音は たえて久しく なりぬれど  名こそ流れて なほ聞こえけれ」という歌を残している。


また公任は、当時の歌詠みの憧れで、和泉式部の娘の婿である藤原範永は、公任に誉められた歌を錦の袋に入れて持ち歩いたという。


また反対に、藤原道綱の母の弟・藤原長能は、公任に歌を批判されたため、拒食症となって死んでいる。


若い頃から学才、特に和歌に秀でていた公任の、影も踏めまいと父兼家に嘆かれた藤原道長は、顔を踏んでやると豪語した逸話は有名である。


漢詩や管弦などに秀でた公任だが、政治の分野で道長に先を越されると見切りをつける。


藤原斉信、藤原行成、源俊賢とともに一条朝の四納言と呼ばれた公任だが、道長には政治的にかなわないと悟る。


するとすぐに頭を切り替え、道長の政を支える裏方へ回る賢明さを公任は持っていた。


そんな公任だが、年若い最初の頃から悟りを得ていたわけでは決してなかった。


公任は漢詩、管弦、和歌すべてに優れ、三つの舟にすべて乗ったという「三舟の才」のエピソードを持っている。


そのため公任は道長とは同い年だったが、出世はずっと早く、円融朝では姉が皇后になっている。


一方の道長の姉・詮子は懐仁親王(のちの一条天皇)を生んだにも関わらず、女御のままだった。


すると有頂天となった公任は、わざと詮子の侍女に聞こえるように「こちらの女御はいつ后になられるのかな」という暴言をはいて恨まれた。


ところが円融帝が譲位して、懐仁親王が東宮となると、公任と道長の立場が急に逆転する。


公任は詮子の侍女たちから「産まずめの后はおられるのかな」と子供のいない皇后の姉を毒づかれ、辱しめられている。


また若い時の公任はわがままで、同僚だが一歳年下の藤原斉信に出世で先を越されると辞表を提出して、半年間も出勤拒否をしている。


それでも当初は家柄がいいため、特別扱いを受けていた公任だが、時代とともにそれが通用しなくなる。


若い頃にいい思いをした公任だが、時代が変化すると過去を捨て去り、考え方を変えた辺りがやはり彼の偉さである。


娘の彰子の入内が決定すると、道長は婚礼道具に豪華な屏風絵を用意して、そこに公卿たちの和歌を詠み込むことを考えつく。


花山法皇なども歌を寄せたが、公任は真っ先に道長に歌を差し出している。


公卿ではただ一人・藤原実資が、度重なる道長の催促を蹴って、歌を詠まなかった。


同じ小野宮流の従兄弟・実資は、「小右記」で公任の媚びへつらいを厳しく批判している。


ところで紫式部は目先がきき学才に優れた公任よりも、実直な実資の方を気に入っていたようである。


彰子が生んだ敦成親王の誕生50日目を祝う儀式で、公任は紫式部を訪ねてきて冒頭のエピソードが生まれた。


公任は自分を光源氏に見立てて、若紫を訪ねたのだが、紫式部にはそんな高慢とも思える公任の態度が好きになれなかったのかも知れない。


とすれば「源氏物語」主人公・光源氏のモデルは、藤原公任ではなかったということになる。


一方、紫式部は彰子との取次をするうちに、藤原実資と懇意となり、様々なことを相談している。


それはともかく、藤原公任はのちに儀式の詳細を記した「北山抄」を書き残しているが、この書物が学術的に現在にも大きな影響を与えた。


公任は、検非違使の長官である別当なども勤めた。


そして公任が「北山抄」を書きはじめたのは、検非違使別当の任を離れてからしばらく後のことであった。


この「北山抄」の草稿を書くとき、公任が原稿用紙として用いたのは、不要になった検非違使関連の公文書の裏面だったのである。


平安時代においては、上級貴族たちの間でさえ、その裏側を使うほど、当時は紙が貴重だったのである。


「北山抄」の裏に書かれた検非違使の記録によれば、平安時代中期は、殺人・強盗・汚職などが日々巻き起こる、凶悪な時代だったのである。


そして和歌や横笛など雅さが得意な藤原公任が、意図したわけではないが、平安時代の凶悪さを伝える書物を残したというのは、いかにも皮肉である。


1036年長元8年、最後まで官界に残っていた藤原斉信も大臣任官を果たせぬまま没した。


そして最終的には、四納言のうち公任だけが最後まで生き残った。


藤原公任は、1041年長久2年1月に75歳で逝去した。

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