紫式部と藤原宣孝の結婚生活は、何の前触れもなく、突然宣孝の死によって終止符が打たれた。


宣孝の死によって一人娘と取り残された彼女は、憂鬱な寡婦生活を生きる中で、「源氏物語」の執筆を思いつく。


紫式部の「源氏物語」が、いかにして生まれたのかを詳しく見ていこう。


紫式部の結婚生活は、宣孝が浮気をすることもあったが、娘の賢子が生まれ、それなりに幸せな日々が続いていた。


藤原宣孝は990年正暦元年、思いがけなくも筑前守となり、帰京後に紫式部と結婚している。


宣孝は結婚した998年長徳4年春、賀茂の臨時祭で舞人を務め、夏には山城守の任を受けている。


山城国は京都の一部で、宣孝と紫式部は洛中にいながらに、それまで以上に大きな収入を得ることが出来た。


宣孝はこの年の秋の賀茂臨時祭でも、駿河の風俗舞である駿河舞を披露して人々を魅了している。


翌年の定子が一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産した祝いの席で、宣孝は実資に酒を勧める役をした、と「小右記」に書かれている。


陽気で明るく社交的な宣孝は、道長や実資にも愛され重用され、重要なポストにつくことも多かった。


その後も宣孝は西暦1000年長保2年、九州の宇佐八幡宮への使者を勤めた礼に、道長から馬二頭を賜っている。


翌1001年長保3年の正月2日、宣孝は天皇が飲み残した屠蘇を最後に飲む「後取」という役を務めた。


ところがその宣孝が、4月25日に突然に死去するのである。


紫式部は4月の末に急に宣孝の住んでいた家の娘から、「宣孝が逝去したため明日葬送を行う」と知らされる。


つい最近まで元気だった宣孝の死に、紫式部は仰天する。


当時はもがさや赤もがさと恐れられた天然痘やはしかが、日本国中に蔓延していたため、40代後半の宣孝も感染したと考えられる。


平安時代の葬送は夜中に行われたが、宣孝の遺体も鳥辺野で火葬され、遺骨は藤原氏の墓地である宇治の木幡に埋葬されている。


正妻の家の者が中心となって葬儀は執り行なわれたため、妾である紫式部は葬送には参列しなかったと思われる。


20代後半の紫式部は、まだ二歳の賢子を抱え、途方に暮れている。


宮中でもこの年の1月には皇后定子が、翌年の2月には一条天皇の母・東三条院詮子が崩御している。


宣孝が亡くなった前後は、日本国中が喪に服しているような期間であった。


ただ紫式部にとって幸いだったのは、父親の為時が、任地の越前から帰国して、壮健だったことである。


気分すぐれない日が続いたが、紫式部が唯一すべてを忘れることができる時間が、物語を読んでいる時であった。


「竹取物語」「うつほ物語」「落窪物語」などを読み進めていくうちに、彼女はある日記に衝撃を受ける。


それは彼女の姻戚関係にある、藤原道綱の母が書いた「蜻蛉日記」であった。


そこには二人にしか知り得ない寝室での話や痴話喧嘩が、そのまま正直に綴られていたのである。


紫式部の母方の祖父・藤原為信と、道綱の母は義理の姉弟であった。


道綱の母は「蜻蛉日記」の作者だが、衣通姫、光明皇后とともに本朝三大美人にも数えられた才女である。


彼女は、道長の父の兼家の妾となって、道綱を生んでいる。


彼女は権力者の兼家が多忙なために、なかなか自分のもとに通って来ない嘆きなどの夫婦生活を、赤裸々に日記に綴った。


紫式部は、「心の中の深層部をこれだけ正確に書き残している書物を読んだことがない」と衝撃を受ける。


道綱の母はこの時すでに数年前に亡くなっていたが、紫式部は自分の身内に同じ妾という立場で文学的才能を発揮した女性がいたことに感激する。


そして彼女は、自分の人生だけ書く日記よりも、たくさんの人々の生き方が書ける物語を書こうと考えた。


さらに既存の絵空事のような物語ではなく、今までにないありのままの姿を綴った物語を書くことを彼女は決心する。


当時の物語は「むかしむかし」で始まる説話やおとぎ話のようなものが多く、子供や女性しか読まなかった。


紫式部は自分の特性が、小さい頃から父・為時に学んだ漢文や歴史に造詣が深いことであることに思い至り、男性も読もうとする物語を書こうと思った。


彼女は想像を膨らませて、自らの物語を綴るとともに、友人たちに読んでもらって感想を聞いた。


そしてついに紫式部は、村上天皇の第七皇子で、父・為時と親交のある具平親王に物語を送って読んでもらっている。


「源氏物語」は4百字詰め原稿用紙で、約2千枚以上の超大作の物語である。


彼女が苦労したのは、宮中での現実をそのまま書けば、自らの命さえ危険なことある。


そこで彼女は、中国や日本の昔の逸話や比喩をうまく用いながら、実際の内裏の真実を「源氏物語」に表現した。


そして物語を誰もが読み通せないほど長編にすることで、彼女は実際は現実を書き表していることを読者にカモフラージュしたのである。


ある時一条天皇は「源氏物語」を読んで、「これは自分への当て付けか」と激怒したことがあった。


彼女が書いた物語は、現役の天皇が身につまされるほど、現実的であった。


紫式部は以後、何年間にも渡って物語を書き続けるのだが、彼女が書く斬新な物語の噂は、たちまち都じゅうに広まった。


やがてこの噂を聞きつけた道長が、紫式部に是非中宮彰子の女房に出仕するよう、要請してくるのである。


紫式部は、宣孝の死をきっかけに、悲しみを乗り越え、過去を振り返らずに新たなステージへと登っていくのである。


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