一条天皇と三条天皇は共に、藤原道長とは甥っ子と叔父という血縁関係にあったが、何かと抗うことが多かった。


ところが孫の後一条天皇が即位すると道長は、「望月の歌」を詠むなど最盛期を迎えている。


なぜ一条天皇と三条天皇の身内の二人が、道長とうまくいかなかったのかを詳しく見ていこう。


一条天皇は円融天皇と道長の姉・東三条院詮子の第一皇子である。


そのためわずか7歳で即位した一条天皇にしてみれば、叔父である道長は、当初は頼りがいのある身内であった。


幼少期に即位した一条天皇の在位期間は25年間と長かったが、14歳年上の道長が執り仕切る場面が多かった。


しかし一条天皇は中関白家の中宮定子を寵愛したため、伊周や隆家が不敬を働いても、擁護する立場を取っている。


そして年の経過と共に、一条天皇は自分が摂関家の傀儡的な存在であることに嫌悪感と無力感を持つようになる。


その状態が極端になったのが、定子を職御曹司から内裏へ連れ戻し、政を省みなかった期間である。


もちろん一条天皇が定子を愛していたことは事実だが、中関白家を支援したのは道長への反発からである。


ではなぜ、定子亡き後に一条天皇は道長の娘・彰子のもとに通い、二人の皇子を孕ませたのかである。


彰子は非常に優しい女性で、定子の忘れ形見である敦康親王を、我が子のように育てた。


さらに彰子は、我が子の敦成親王を道長が皇太子しようとした時にも、敦康親王がなるべきだと猛然と抗議している。


一条天皇は定子の忘れ形見を皇太子にしたいと考えていたが、彰子はそんな天皇の意向を汲んで、道長に強硬に反発したのである。


そんな分け隔てなく慈悲深い彰子の姿を見て、一条天皇は彼女を愛するようになっている。


本来、摂関政治は摂政・関白が自分の孫を幼帝にして、政を執り行った時が、一番スムーズにいくようだ。


のちに道長は、孫の後一条天皇の時に最盛期を迎え、「望月の歌」を詠んでいる。


道長も姉の詮子が存命中の時は、詮子を通じて一条天皇をコントロールする事が出来た。


しかし詮子が40歳という若さで逝去してからは、天皇と道長の間に齟齬が生じることも多かった。


途中からは彰子が一条天皇の寵愛を受けるようになり、敦成親王と敦良親王が生まれている。


しかし彰子はいざというときには、道長ではなく、一条天皇の側に立っている。


一条天皇は32歳という若さで崩御するが、次のような意味の漢詩を残したと言われている。


蘭が繁ろうとしても、強い風が吹いて折ってしまい、繁らない。


それと同様に、帝が権威を国中に行き渡らせようとしても、悪臣がはびこって、行き渡らせることが出来ない。


一条天皇が道長をどのように考えていたのかが、うかがえる漢詩である。


道長は一条天皇とは叔父と甥っ子という関係だったが、続く三条天皇ともまた同じであった。


孫は2親等で甥っ子は3親等だが、この1親等の差は、我々が考える以上に大きいのかも知れない。


三条天皇は花山天皇の異母兄弟で、一条天皇よりも4歳年上であった。


そのため本来なら三条が先に即位すべきであったが、道長の父・兼家が孫である一条を優先させたのである。


その結果、三条天皇が即位した時にはすでに36歳になっていた。


また三条天皇は東宮時代の居貞親王の時に、兼家の娘で道長の異母妹の綏子と結婚していたが、綏子が不倫して妊娠するという苦い過去を持っていた。


さらに25年間に渡って三条天皇は、一条天皇が道長に操られている姿を見続けている。


そのため三条天皇は、叔父である道長とは即位した当時から馬が合わずに反目しあった。


ここで我々が思い浮かべなければならないのは、天皇の母親である国母の存在である。


道長が最高権力者に登り詰めることができたのは、国母である姉の東三条院詮子がいたからだと言われる。


三条天皇の母は兼家の娘超子で、冷泉天皇の女御となり後の三条天皇である居貞親王を産んだ。


しかし道長とは同母姉の超子は、三条天皇の即位を見ることなく早世している。


つまり天皇が甥っ子の場合、国母が生きているかどうかがカギとなる。


超子も詮子も道長の同母姉だが、彼女たちが生きていれば、当時は国母として天皇以上に大きな権力を持っていた。


そのため東三条院の存命中、道長は詮子に助けられていくつもの難局を乗り越えている。


しかし三条天皇の場合は、即位した当初から国母である超子はいなかった。


1010年寛弘7年、道長は倫子との間の17歳の次女・妍子を、まだ東宮だった居貞親王に入内させている。


しかしこの時、居貞親王は35歳で、長年連れ添った39歳の后・娍子がいた。


しかも居貞親王は娍子との間に、妍子と同い年の敦明親王をはじめ4男2女がいたのである。


三条天皇は娍子を皇后にしようとしたが、それを阻もうとした道長と対峙している。


娍子を皇后に、妍子は中宮にすることで、三条天皇と道長は一時矛先を納めている。


しかし結局、妍子は内親王を一人生んだが、道長は三条天皇の攻略に見事失敗した。



道長は、孫である敦成親王を帝位につけるために、三条天皇が眼病を患っていることを理由に、強引に譲位を迫った。


三条天皇は我が子・敦明親王を皇太子にすることを条件に、わずか5年足らずで敦成親王(後一条天皇)に譲位している。


しかし道長は、敦明親王に皇太子の御印である壺切剣を渡さず、三条法皇の崩御後に皇太子を辞退させている。


そして道長は、後一条天皇の東宮には、同じく彰子の子である敦良親王を就任させている。


藤原道長が、そこまで孫を皇太子にする事にこだわったのも、甥っ子の一条天皇と三条天皇が思い通りにならずに苦労したからである。


そして二人の天皇の国母である彰子は、道長の期待に答えて活躍し、87歳という長寿をまっとうしている。


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