しかしこれはまだ序の口で、彼が目指したのは「一家立三后」という、誰も成し遂げたことがない暴挙とも言える策略であった。
藤原道長が企てた策略が、いかに強引でしかも巧妙だったのかを、詳しく見ていこう。
道長が行った摂関政治の成否は、次の3つにかかっていた。
その第一は娘たちに恵まれること。
第二にその娘たちが天皇もしくは天皇になりうる人の后となること。
そして第三にその娘たちが皇子を産み、その皇子たちが天皇になることである。
幸運にも正妻・倫子は四人の女の子を次々に産んだため、道長は第一関門を見事クリアする事が出来た。
続いて長女の彰子が一条天皇の女御になったことで、第二関門のやっと数%をクリアした。
しかし彰子が入内し女御となった同じ日に、中宮定子は一条天皇の第一皇子である敦康親王を生んでいる。
さらに一条天皇の皇太子には、すでに冷泉天皇の第二皇子である居貞親王が就いていた。
居貞親王は、兼家の長女の子供で、道長の甥っ子であった。
そのためこの時点で、道長が天皇の外戚となれる可能性は非常に低かった。
さらにもしも定子が産んだ敦康親王が、次の天皇の皇太子になれば、道長の将来は絶たれてしまう。
そこで絶体絶命のピンチに立たされた道長は、蔵人頭の藤原行成に助けを求め考えた出したのが、彰子を中宮にすることであった。
その間の模様を行成は「権記」に記しているが、彼は一条天皇と道長の間をうまく取り持って活躍した。
そのため道長は、彰子の入内から立后について、行成が骨身を惜しまず協力してくれたと、最大の感謝を表した。
そして道長は、行成の子孫の代までも親交を誓うなどして、謝意を示している。
若い頃から病弱の道長は、この当時は特に体調が悪く、一条天皇に辞職を申し出るほど公私に渡って行き詰まっていた。
そのため行成の骨身を惜しまない行動が、道長にはよほど嬉しかったに違いない。
その結果、道長と行成の親交は、生涯に渡って続いている。
藤原行成は道長より6歳年下だが、律儀な彼は道長より1年早い同じ1月3日に56歳で亡くなっている。
それはともかく、一条天皇も最初は定子の気持ちを察して、彰子の立后には反対していた。
しかし行成に説得され、道長と全面的に対立する事が得策ではないと考えたのか、天皇は立后の儀を認めている。
西暦1000年長保2年2月、晴れて立后の儀が執り行なわれ、定子が皇后、彰子が中宮となっている。
これによって一人の帝に二人の后という、日本史上でも初めての異常な形態が出現する。
それまでは中宮は皇后の別称であったため、中宮と皇后が同時に並立することはなかった。
しかし道長は、前例をくつがえして無謀とも言える自分の主張を強引に押しと通したのである。
道長はよく幸運な男だと言われるが、いざという時には強硬な手段に打ってでる智謀と意志の強さを持っていた。
1001年長保2年、皇后定子は第三子の媄子内親王を出産直後に逝去する。
道長は彰子のもとに紫式部をはじめ優秀な女房たちを集め、定子のサロンに負けない華やかな環境を調えている。
すると中宮彰子は徐々に一条天皇の寵愛を受けるようになり、数年後に敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)を産む。
すると次に道長は、倫子との間の次女で17歳の妍子を、巧妙に35歳の東宮居貞親王(のちの三条天皇)のもとに入内させるのである。
次女の妍子は、道長の娘たちの中でも一番美しいと評判の女性だった。
そのため居貞親王もいやとは言わず話を受けたが、彼にはすでに右大臣藤原済時の娘で29歳の后・娍子がいた。
そして居貞親王には娍子との間にすでに敦明親王をはじめ、4男2女がいたのである。
1011年寛弘8年、一条天皇が病のため譲位して居貞親王が三条天皇として即位すると、娍子が皇后となり、妍子は中宮となっている。
妍子は三条天皇との間に内親王を出産したが、男の子を期待していた道長はあまり喜ばなかったという。
そしてこうした習慣は、ごく最近まで日本に残っていた。
道長は孫の敦成親王を早く帝位につけたいため、三条天皇が眼病を患っていることを理由に、強引に譲位を迫った。
すると三条天皇は、自分の子である敦明親王を東宮にすることを条件に敦成親王に譲位して退位している。
1016年長和5年、9歳の敦成親王が後一条天皇として即位することで、道長ははじめて天皇の外舅となることが出来た。
しかし道長の策略は、まだまだ続く。
道長は、彰子の子である後一条天皇が11歳で元服すると、なんと二十歳になった倫子との間の三女・威子を天皇のもとに入内させるのである。
そして道長は、長女彰子の11歳の長男の中宮に、自分の三女・威子を立てることで「一家立三后」を実現する。
1018年寛仁2年10月16日、道長は倫子との間に生まれた三女の威子が、後一条天皇の中宮となった日の夜、有名な次の歌を詠んでいる。
この世をば 我が世とぞ思う 望月の
かけたることも なしと思へば
土御門第で開催された夜の宴で、絶頂期の道長がこの歌を詠み、藤原実資が参加者と三度唱和したとされている。
しかし道長の策略は、これで尽きることはなかった。
三条法皇が崩御すると、道長は圧力をかけて敦明親王に皇太子を辞退させ、孫の敦良親王を東宮としている。
そして彰子の第二皇子・敦良親王が元服すると、倫子との間の四女嬉子を入内させている。
嬉子が生まれたのは、道長42歳、倫子44歳で、なんと産養の儀式は姉の中宮彰子が行っている。
まさに嬉子の誕生と養育は、将来彼女を天皇の中宮にするという道長の計画通りに実施されたものである。
1025年万寿2年8月、嬉子は道長の計画通りに親仁親王(のちの後冷泉天皇)を出産する。
ところが天のいたずらか、嬉子は赤斑瘡でわずか2日後に薨去する。
嬉子は中宮にもなれずに、わずか18歳で亡くなったことで、藤原摂関家の繁栄の連鎖が徐々に狂い出すのである。
そこで道長は、親仁親王には、紫式部の娘・大弐三位を乳母につけるなど大きな期待を寄せた。
しかし道長の死後、親仁親王は後冷泉天皇として即位したが、後継者が出来ずに結局院政へと時代は移って行く。
藤原道長の緻密だが強引な策略は、彼の生前中はなんとか機能したが、死後にはやはりほころびを見せるのである。