天皇家と藤原摂関家の両家を支え続けた藤原詮子は、皇后定子が亡くなると、忘れ形見の皇子たちを引き取って養育している。


ところが翌年に40歳となった詮子は、体調を崩し病臥したため、一条天皇と道長はあらゆる手当てを試みた。


藤原詮子のその後を、詳しく見ていこう。


藤原詮子は962年応和2年、藤原兼家と時姫との間に生まれている。


詮子は17歳で宮中にあがり、円融天皇の女御となって、2年後には懐仁親王(のちの一条天皇)を出産する。


ところが円融天皇は、兼家に操られることを警戒して、まだ子供を生んでいない関白藤原頼忠の娘・遵子を当て付けのように皇后とするのである。


兼家と詮子は天皇のあまりの仕打ちに、涙にくれた。


この時、女御のまま据え置かれた詮子は、円融天皇とうまくいかない気持ちを次の歌に詠んでいる。


「なきに劣りて生ける身の憂き」


死んだ人よりひどい状態で生きる身はつらい、と詮子は嘆いている。


この間、兼家や道長たちも公卿たちから冷たい目で見られ、つらい思いをしている。


詮子の侍女は腹いせに皇后の遵子を、「素腹の(子供を生んでいない)后」だとわざと聞こえるように言って辱しめたりしている。


しかし、円融天皇に続き花山天皇が譲位して一条天皇が即位すると形勢は一気に逆転する。


986年寛和2年7月5日、晴れて詮子は皇太后となっている。


円融法皇が崩御すると、詮子は出家して、皇太后に代わり院号宣下を受け、住まいの東三条邸に因んで東三条院を称した。


以後江戸の幕末までに約100人の女性が院号を受けているが、東三条院詮子は、日本で最初に女院号を受けた女性である。


詮子は天皇家と藤原摂関家の両家の間を取り持って、女手一つで支えるのである。


一条天皇もそんな詮子には、礼を尽くして接している。


中宮定子に仕えていた清少納言は、「枕草子」に詮子と一条天皇が石清水八幡宮へ行幸した時の次のエピソードを記述している。


995年長徳元年10月、元服して独り立ちを始めた一条天皇と、34歳になった東三条院が行幸した。


石清水八幡宮付近は、一条天皇を一目見ようとする見物人でごったがえしていた。


そんな中、女院の桟敷を認めた一条天皇は、輿を止めて近衛中将を使いに出して、詮子にわざわざ挨拶をしている。


清少納言は、天皇になっても母に礼を尽くす一条天皇の姿があまりに立派なため、涙で化粧が流れてしまって困ったと記している。


しかしそんな詮子は若い頃から体が弱く、女院になってもたびたび体調を崩した。


そのため詮子が病床に臥せるたびに、一条天皇が内裏から東三条院まで行幸したため、都は大騒動となった。


また詮子は病を発病すると、よく大赦を発したが、流罪となっていた藤原伊周や隆家もこの恩赦によって都に召還されている。


藤原実資は「小右記」に、詮子のために大赦が発せられるたびに、一条天皇の命を受け道長や藤原行成が手続きのために走り回っていると書いている。


詮子は病弱なわりには、体調が回復すると近江の石山寺や大和の長谷寺へよく参詣している。


また詮子は仏教の信仰にも熱心で、参詣の際には袈裟や砂金などの多くの布施をしている。


法華講を毎年のように営んでいた詮子だが、その志は道長に引き継がれた。


40歳になった東三条院が、体調がすぐれないため、道長を中心に土御門第では詮子の回復を願った催しが行われた。


この催しで、倫子の長男・頼通と、明子の長男頼宗が「子供舞」を舞った話は有名である。


東三条院は明子の養母となっていたため、明子の子どもたちをかわいがった。


この日も頼宗の舞の師匠だけに、位階が与えられた。


すると倫子が立腹して席を立ったために、のちに頼通の師匠にも位階が与えられたという話である。


詮子は気性が竹を割ったような性格で、特に若い頃は好き嫌いがはっきりしていた。


そのため公卿たちが反対する中、東三条院で馬競べを行ったり、内裏で猫のための産養の儀式を押しきって開催している。


また兄弟の中でも道長だけを愛した詮子は、道隆や道兼を嫌ったようである。


五歳年上の詮子は、母を早くに亡くした道長を親がわりとして育てたのである。


道長が最高権力者となり得たのは、ひとえに詮子の育みと後押しがあったからである。


しかし晩年には天皇家と藤原摂関家の行く末を案じ、詮子は皇后定子が若くして死去した際には、残された内親王達を養育している。


回復の催しのかいもなく、東三条院の病状が悪化すると、道長は医者や陰陽師を手配するなどあらゆる手当てを尽くしている。


1001年長保3年12月、一条天皇が見守る中、東三条院は完全剃髪を行っている。


安倍晴明の占いによれば、方角が悪いので、詮子を行成の邸宅に移すなどしているが、あまり効果は見られなかった。


この時には、道長自らが冷泉天皇の第三皇子の為尊親王らとともに詮子が臥せる御座を運んでいる。


東三条院詮子は、12月22日に40歳で生涯を閉じた。


雪の降りしきる中、詮子の葬送は執り行なわれたが、遺言で質素にとのことで宇治木幡の藤原一族の墓所のうち、宇治陵に葬られた。


のちに道長が病を発症すると、仏教に熱心に帰依したのも、詮子の影響だと言われている。


病弱の体を押して、天皇家と藤原摂関家の両家を立派に支え続けた詮子の生涯であった。


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