彼女こそが道長を、最高権力者の座に押し上げた本当の主役である。
天皇の后でも女官でもなく、また和歌の才能がある文化人でもない倫子が、活躍が出来た秘密を、詳しく見ていこう。
源倫子は、宇多天皇の孫で左大臣の源雅信と藤原穆子の間に生まれた。
十世紀までの摂政・関白の妻の位階は、従二位どまりであったが、なぜか倫子以後は従一位を授与されている。
また倫子の嫡男・頼通の正妻・隆姫女王の時から、「北政所」と言う呼称が摂関の正妻に限定して使われるようになっている。
つまり彼女は、女性の地位を男性と同等に近いところまで押し上げた人物なのである。
そして摂関家当主と同居の正妻によって家が構成され、北政所は当主と同等の役割を担っていくことになる。
倫子はすでに従三位であったが、長女の彰子が一帝二后という荒業で道長が立后すると、従二位に進んでいる。
そして1008年寛弘5年、倫子は人臣女性としてははじめて従一位に叙されている。
倫子は后母として内裏に出入りするが、それは定子の母・高階貴子を見習ってのことである。
高階貴子は円融朝に女官として活躍し、高内侍と呼ばれた才女である。
貴子は藤原道隆と結婚して、990年正暦元年に娘の定子を一条天皇に入内させ中宮としている。
さらに貴子は5年後に、娘の原子を東宮居貞親王(のちの三条天皇)に入内させ、中関白家の春を迎えた。
倫子は貴子を真似て、彰子が入内すると、せっせと内裏に出入りした。
しかし貴子が女房たちに嫌われたことにも学んで、倫子は女房たちには豪華な衣装をプレゼントするなどの気を使っている。
そして倫子は道長のかけがえのないパートナーとして内裏を押さえ、道長が長く最高権力者の座にとどまることを助けたのである。
道長が出世出来たのは、倫子の家が裕福で、土御門殿など莫大な財産を倫子が所有していたからだと言われてきた。
もちろんそれが大きな要因の一つであることは間違いないが、倫子の内裏での活躍がずば抜けていたことが最大の要因である。
彰子が12歳で一条天皇のもとに入内した時、倫子は優秀な女房たち50人と豪華な婚礼道具を揃えた。
そのため倫子が選定した、きらびやかな女房たちの装束や調度品が入った後宮は「かがやく藤壺」と謳われた。
彰子の入内を一切仕切った倫子だが、この時彼女は妊娠していたのである。
倫子は翌月に三女の威子を出産しているが、倫子は臨月近い体ではじめて娘が入内するという大事な儀礼を、見事成功させている。
また定子が産み残した敦康親王を、倫子は彰子の猶子にする手はずも整えている。
もしも彰子が一条天皇の皇子を産まなかった場合の、いわば保険である。
彰子のもとに紫式部や和泉式部といった、優秀な女房たちを集めたのも倫子である。
そして倫子は、立て続けに四人の娘たちを、天皇と皇太子のもとに入内させ、「一家立三后」を実現させるのである。
もちろん道長が政治を取り仕切ったことに間違いはないが、倫子が内裏をまとめていなければ、道長は短期間で権力の座から滑り落ちていたに違いない。
また倫子がいなければ、兄の道隆の死後、中関白家が脆くも崩れ去ったように、道長の死後に御堂関白家も崩壊していただろう。
つまり藤原道長に「望月の歌」を詠ませ、彼を日本の最高指導者に押し上げたのが倫子であった。
そんな出来すぎた妻とも言える倫子だが、「紫式部日記」には、そんな倫子が紫式部に嫉妬したのではないと疑われる場面が登場する。
彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産すると、道長はお祝いの儀式を土御門殿で盛大に開催した。
誕生五十日を祝う、「五十日(いか)」といわれる宴の席で、道長は喜びのあまりに酔っぱらう。
すると道長は紫式部をそばに近付けて、着物の袖をつかんで、歌を詠めと迫った。
紫式部は、さすがに道長の命令とあっては断れず、次の歌を即興で詠んだ。
いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)のあまり久しき君が御代をば
紫式部は、誕生五十日の「いか」をかけて「いかにいかが……」と親王の長寿を願うと、見事な歌を詠み上げた。
すると道長は「実に上手い」と紫式部の歌を二度口ずさみ、次の返歌をすぐに詠んでいる。
あしたづのよはひしあれば君が代の千歳の数も数へ取りてむ
「葦の水辺にたたずむ鶴のように千年も生きて、親王を見守りたいものだ」と、そう歌に意欲をこめると、道長は彰子にむかって話しかけた。
「中宮様。上手く詠んだでしょう。母上の倫子も幸せと笑っておいでで、良い夫を持ったと思っているのだろう。」
するとこれを聞いた倫子は、気を悪くしたのか急に顔色を変えて席を立った。
道長は倫子が急に不機嫌になったので驚いて、あわてて彼女の後を追ったという。
普段は冷静な倫子だが、道長があまりに紫式部と親しくしたため、焼きもちを焼いたのかも知れない。
それはともかく、倫子の働きを見ると、彼女は身体が丈夫で健康的なスーパーレディのように見える。
ところが実は、事実はそうでもなかったようなのである。
倫子は若い頃から持病を抱えながら、回りの者には気付かせずに道長を支え続けた。
倫子の嫡男・頼通の曾孫の藤原忠実が残した「富家語」という書物には「忠実は首が腫れる病気を患っていたが、倫子も同じ持病だった。」と書かれている。
現代医学に照らして見れば、リンパ節炎などが疑われるが、二人とも同じ持病に苦しんでいた。
しかし倫子は、「一病息災」のことわざ通りに、道長が62歳で他界した後も息子たちを支え続けた。
そしてなんと源倫子は、道長が死んでから25年後の1053年天喜元年、90歳で天寿をまっとうするのである。
倫子の家系は長寿が多く、母親の穆子は86歳、子供の彰子が87歳、頼通が83歳、教通が80歳と長生きをした。
やはり摂関家を最後まで支え続けた主役は、源倫子だったのである。
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