藤原宣孝は為時の友人だが、紫式部と結婚した時、かなり羽振りの良い生活をしていた。


同じ中級貴族の宣孝が為時より常に裕福だったのは、どうも仕事の赴任先が関係していたようである。


宣孝の父や甥っ子、そして宣孝本人も当時の唯一の貿易港である大宰府の役人となった。


そして彼らはそこで、どうもかなりヤバイ仕事に手を染めていたという疑いが浮かび上がってくるのである。


藤原宣孝の本当の顔を、詳しく見ていこう。


宣孝は生年は不詳だが、正三位・権中納言の藤原為輔の子として生まれている。


父・為輔が晩年に大宰権帥となったことが、宣孝と大宰府を結びつけたようである。


宣孝は三男であったためか、官位も為時と同じ正五位下と低かった。


ところが990年永祚2年の 8月に筑前守の任命を受けて九州へ下ってから宣孝は、急に羽振りがよくなっている。


2年後の992年正暦3年に宣孝は、大宰府の副長官である大宰少弐に任命され筑前守と兼務している。


当時の日本の朝廷は、大宰府に限って中国や高麗との交易を認めていた。


そのため宋の商人が頻繁に大宰府に往来して、唐物と呼ばれる中国製品を大量に持ち込んでいた。


唐物には絹織物や陶磁器などが多く、日本の砂金や硫黄などと交換された。


ドラマに登場する朱仁聡も宋商人の一人で、宣孝が大宰少弐に就任した前後に、記録にあるだけでも7回も来日している。


記録にあるとは、朝廷が中国からの来航者の名前を必ず報告することを義務づけていたからである。


ところが大宰府の役人をはじめ、日本各地の国司たちが、朝廷には秘密裏に交易する、いわゆる密貿易が横行しはじめていた。


宋商人と各地の国司たちにとっての密貿易は、互いに巨万の富を得る手っ取り早い方法であった。


宣孝は、約3年間に渡って筑前守と大宰少弐を務めているが、彼が宋商人とコンタクトを取ったという証拠は残ってはいない。


しかし官位も同じ中級貴族の為時に比べて極端に宣孝が裕福だったのは、この期間に私腹を肥やした可能性が非常に高い。


さらに宣孝は、帰京後に紫式部と結婚するが、彼にはすでに三人の妻と六人の子供がいた。


多くの家族を持つには、かなりの財力がなければ出来ないことである。


紫式部がかなり年上の宣孝との結婚に踏み切った大きな要因の一つに、彼の経済力があったことは間違いない。


とすれば、宣孝が筑前への赴任中に悪事にも手を染め、私腹を肥やすという裏の顔を持っていた可能性は十分にある。


当時は紙や筆、墨が貴重なため、女流作家と呼ばれた女性たちは、多くがかなり年上であっても裕福な男性と結婚したようである。


のちに清少納言が、筑前守や摂津守を歴任したが高齢の藤原棟世と結婚しているのが、その一例である。


また宣孝の次兄の説孝は大宰府へは赴任していないが、地方官として摂津守となったが住吉神社との間で紛争を起こしている。


赴任中にどうも公の米をかすめとるなどの悪事を働き、住吉神社の神人とトラブルを起こしたようである。


1004年長保6年、説孝が参内しようとしたところを、説孝を訴えるために上京して集まった住吉神社の神人に見つかって、追いかけ回される事件が発生している。


宣孝の長兄・惟孝は凡庸で、官位も従五位上どまりであった。


ところが、この惟孝の長男の藤原惟憲という男が、「朱仁聡は何しに日本へ?」の動画でも紹介したように、とんでもない悪党だったのである。


藤原惟憲は宣孝の長兄の長男で、紫式部よりも10歳ほど年上だが、宣孝夫婦にとっては甥っ子となる。


惟憲は父親とは違って要領がよかったのか、因幡守を皮切りに甲斐守や近江守を歴任している。


そのため惟憲は、国司の在任中にはかなりの私腹を溜め込んだようである。


また目先のきいた惟憲は、大国の国守を務める一方、藤原道長の家司として仕え、厚い信頼を得ている。


1017年寛仁元年、敦良親王(後の後朱雀天皇)が道長の外孫として初めて皇太子に立つと、惟憲はその補佐官である春宮亮に任ぜられている。


また惟憲は、国司として蓄えた財力をもって、京内の一等地である藤原道長の土御門第の西隣に邸宅を構えている。


1016年長和5年、惟憲の自邸から出火し、土御門第や法興院など500件以上の家屋を焼失させてしまう。


にも関わらずなぜか惟憲は、その再建の造営責任者の任命を道長から受けている。


1018年寛仁2年に惟憲は、自邸と同時に土御門第を再建させ、道長と同じ日に引っ越しを行ったため、再建は賄賂ではと世人の不審を買ったという。


さらに惟憲は道長とのコネを利用して大宰府の長官である大宰帥に就任すると、日本の貿易をすべて管理するという立場を悪用する。


大宰帥は大宰府に赴任しないことが慣例となっており、通常現地には次官の大宰権帥が赴任した。


しかし彼は1024年万寿元年に61歳で大宰府に赴任すると、1029年長元2年に帰京するまでの6年間に貪欲に私腹を肥やし続けた。


当時は蔵人所が、宋商人から唐物と言われる輸入品を強制的に買い上げる権限を持っていた。


すると惟憲は、、周良史という宋商人と手を組んで蔵人所の名を詐称してこの権限を行使して、欲しい物はすべて手に入れた。


さらに彼は、1028年長元元年に周良史が来航したにも関わらず、京都への報告を怠っている。


つまり惟憲は朝廷には秘密で密貿易のような形で唐物を手に入れ、利潤を得ていたのである。


惟憲は手に入れた唐物を賄賂に使って、都の公卿や役人たちを籠落したようである。


また彼は大隅守射殺事件に関係した平季基を脅して、賄賂をゆすり取るような悪事にも手を染めている。


藤原惟憲は在任中に、数々の汚職によって莫大な財産を手にした。


彼が任期を終えて帰京した時、すでに紫式部も道長も没していたと思われるが、彼はその莫大な財貨をすべて持ち帰った。


そのため藤原実資は「小右記」に「惟憲が大宰府から持ち帰った財宝は数を知らない。」


「日本国の宝を根こそぎ奪い取るような行為は、全く恥を忘れたかのようである。」と怒りを込めて記述している。


このように藤原宣孝の身内には、大宰府というこの上なく実入りのある役所に関係して暴利を貪った者がいたのである。


紫式部は同じ身内に為時という要領の悪い父親がいたため、経済的には苦労したが、父親もやっと越前守になることが出来た。


ところが当時はたとえ国司という役職を得たとしても、強欲にならなければ、私腹を肥やすことは出来なかった。


そこに「貪欲」か「清貧」、どちらが正しい生き方なのかという、彼女を生涯苦しめる葛藤が生じる。


彼女は一人娘の賢子を抱えながら、生きていくために悩んだに違いない。


そして厳しい現実を目の当たりにした紫式部は宣孝の死後に、「もののあわれ」をテーマにした「源氏物語」の執筆をスタートさせるのある。


【藤原宣孝の本当の顔】ユーチューブ動画