藤原道長は、間違いなく日本の歴史上で最も長く最高権力者の座に留まった伝説上の威厳がある古い形の人物の一人だと思われてきた。


しかし子孫たちが語る本当の彼の姿は、古い考えに囚われない、大人になっても子供心を失わず新しいことにチャレンジする人物だったのである。


子孫が語る、本当の藤原道長の姿を見ていこう。


道長の本当の姿を我々が知ることが出来るのは、嫡男の藤原頼通やその曾孫の忠実が「中外抄」や「富家語」という書物を残しているからである。


「中外抄」によれば、道長は大変に迷信深く、若い頃から手を洗う時は必ず北を向いて洗ったという。


そしてその理由というのが、北を向いて手を洗えば「福」が来るからだという。


そして彼が言う「福」とは裕福、富のことであった。


道長は北を向いて手を洗う習慣を、青年の頃から終生続けたという。


彼は日本の最高権力者の中でも、約30年間という長期に渡って富と権力を握り続けた人物である。


生まれも裕福な道長が、生涯富に執着したとすれば、彼はかなり強欲な男だったことがうかがえる。


つまり彼は迷信深いというよりも、欲しいものは欲しいと素直に表現する現代人に近い人間であった。


また子どもたちによれば、道長は年を取ってからも服装にはこだわり、派手な色を好んだようである。


頼通の曾孫の忠実は「富家語」と言う書物を残している。


それによれば、年を取れば淡い赤を一般の貴族は身につけるのに、道長は若い人と同じ真っ赤な物を好んだという。


そのため年を取った道長を、公卿たちはかげで「赤好みの若づくり」だとからかったようである。


しかし彼はそんなことは気にせずに懸命に、年よりも若く見られたいと努力を続けたのである。


道長は子煩悩でも有名で、特に嫡男の頼通を溺愛している。


999年長保元年7月の「御堂関白記」には、まだ8歳の頼通が病気になって慌てる道長の様子が綴られている。


頼通は幼名を田鶴丸と呼ばれたが、日記には「田鶴の悩み事のために道貞の家に渡る。日が悪いので夜半に移る。」と書かれている。


道貞とは道長の家司橘道貞のことで、妻は和泉式部である。


橘道貞と和泉式部は、ともに道長に仕えて活躍した。


それはともかく、当時は陰陽道で日や方角が悪いと、方違えといって夜中に病人を移したのである。


夜中に頼通のことを心配しながら、おろおろする道長の姿が浮かんくる。


またある時、頼通が「花形」という愛馬に乗ろうとすると、頼通の随身が道長に馬を交換することを進言した。


理由を聞いて見れば、今日は「花形」は機嫌が悪く事故が起こる可能性が大きいという。


そのために「花形」には別の者が乗り、頼通は他の馬に乗った。


すると「花形」は暴れまわってついには横に倒れ乗っていた者が怪我をしたという。


もしも頼通が、「花形」に乗っていれば大怪我をしていたに違いない。


道長は多いに喜び、随身の者に多くの褒美を与えている。


以上の事から彼が頼通を異常に愛し、回りのことは気にせず、好き嫌いのはっきりした人間だったことがわかる。


道長は、嫡男である頼通を偏愛したが、そのためほか彼の子どもたちは嫉妬した。


特に同じ倫子の子どもで、4歳年下の弟・教通と頼通はとても仲が悪かった。


頼通は教通を「腹黒き人」と公言して、生涯嫌っている。


道長が内覧となって左大臣に就任すると、全国の受領達から、多くの贈り物が土御門邸に贈られてきた。


土御門の広大な邸宅の池に、道長が船を浮かべて天皇や公卿たちを接待したことは有名だ。


彼は船の上で音楽を演奏させて、人々の度肝を抜いた演出家、最高のエンターテイナーでもあった。


道長は馬が好きだったようで、土御門邸には多くの駿馬が受領達からプレゼントされ飼われていた。


そして道長は邸内に馬場、いわば競馬場のようなものをつくって、よく競馬を楽しんだ。


ただし当時の競馬は、馬競べともいわれ、二頭ずつが速さを競うというものであった。


道長の競馬好きは病的で、法興院という藤原氏の寺にも馬場をつくって競馬を楽しんでいる。


藤原道長は1018年寛仁2年10月、「一家立三后」を実現して有名な「望月の歌」を詠んでいる。


しかしそのわずか3ヶ月後に道長は、病となって出家するが、その時彼はまだ53歳で、死の10年前であった。


彼は法成寺という巨大な寺を自宅のすぐ横に築いて、そこに移り住んでいる。


道長は40歳の時に浄妙寺という寺を建立していたが、その利益で藤原氏が繁栄したと信じていた。


そのため今度は法成寺という巨大な寺を建立して、藤原氏の更なる繁栄と自分の成仏を願ったのである。




この道長の伝統は嫡男の頼通にも引き継がれ、頼通は藤原氏の別荘があった宇治に絢爛豪華な平等院を建設している。


道長は法成寺の落慶入仏式を、多くの人々が見物できるようにと、完成していた寺の塀をすべて取り壊している。


そのため多くの京の庶民が、法成寺の落慶入仏式の様子を楽しんだという。


入仏式が終わると、道長は塀をすべてもと通りに修復させている。


以上のような事から道長は、子煩悩で迷信深いとともに欲も深く、大人になっても人間的で幼さを残していた。


また自宅に競馬場をつくったり、入仏式をエンターテイメントにするなど、古い考え方に囚われない、最高の演出家だった。


そのため都に人と金が集まり、人々が潤い、道長の政権が30年にも渡って続いた。


藤原道長は大人になっても子供心を失わない、現在人にこそ求められるチャレンジ精神を持った人物だったのである。


【藤原道長は最高の演出家だった!】ユーチューブ動画