そしてどうも紫式部の夫となる藤原宣孝の甥も、彼らと結託して悪事を働き巨万の富を築いていたようなのである。
朱仁聡は何しに日本へ来たのかを詳しく見ていこう。
朱仁聡は987年永延元年に初来日して以降、記録に残っているだけでも7回も来日している。
そして彼が若狭に来て越前の松原客館に移された時は、越前守として赴任してきた藤原為時と面談している。
ドラマでは朱仁聡が「謎の男」として紫式部たちと交流しているが、実は彼は当時多く来日した中国北宋の商人の一人だったのである。
平安時代、日本の朝廷は中国との交易を九州の大宰府に限って行っていたが、やがて中国商人が日本の各地に販路を広げようとやって来る。
もちろん朝廷が禁止しているので密貿易になるのだが、中国商人の中には一攫千金を狙って日本の政界の有力者と手を結ぶ者も多かった。
朱仁聡もそんな中国北宋の商人の一人で、彼は来日回数が7回で最も多かったが、朝廷や石清水八幡宮に物を献じている。
彼は越前守となった為時と懇意になって、利用しようと企んだが失敗している。
また来日回数6回の孫忠は宋の政府から牒状をもたらし、日本政府の返牒を持ち帰るなど、まるで外交官の役回りをする者も現れた。
朱仁聡は997年長徳3年には若狭守源兼澄に対して乱暴をはたらいたため、朝廷ではどんな罪に問うかが議論されている。
その結果彼は、越前から大宰府へ移されている。
皇后定子の使いが前年に唐物を購入した代金を持参した時、彼は既に越前を去っていた。
にも関わらず朱仁聡は、皇后に献じた品物の代金が未払いになっていると訴えを起こすなど、いわゆるトラブルメーカーであった。
結局朱仁聡は、西暦1000年長保2年を最後に来日しなくなっている。
来日した中国北宋の商人には、朱仁聡のような日本各地で問題を引き起こす人物が多かったのである。
来日数3回の周良史もその一人で、彼は父親が中国人で母親が日本人の混血児であった。
彼は混血児という利点を生かして、1026年万寿3年に来日すると、藤原道長の嫡男で関白の頼通に接近する。
周良史は大量の絹などを頼通に献上する代わりに、日本の爵位を頂きたいと望んでいる。
さすがに頼通は彼からの申し出書を返却して、黄金30枚を与えて慰撫している。
藤原実資はその日の「小右記」に「商人が関白に物を贈るというのは、その裏に何か貪欲な企みがあるので注意しなければいけない」と記している。
そしてこの周良史と結託して悪事を働いたのが大宰帥・藤原惟憲である。
藤原惟憲の義母は時の最高権力者・道長の乳母で、惟憲の妻も道長の正妻・倫子の乳母であった。
つまり惟憲は道長夫婦に乳母で二重に縁故があり、大宰府の長官といううまみのある役職についていたのである。
そして惟憲の父親は藤原惟孝であるが、父の弟が宣孝、つまり紫式部の夫・藤原宣孝であった。
したがって惟憲は、宣孝夫婦からすれば身内の甥っ子ということになる。
ところがこの甥っ子、藤原惟憲は、とんでもない悪党だったのである。
惟憲は道長とのコネで大宰帥に就任すると、日本の貿易をすべて管理するという立場を悪用する。
彼は1024年万寿元年に61歳で大宰府に赴任すると、1029年長元2年に帰京するまでの6年間に貪欲に私腹を肥やした。
当時は蔵人所が、宋商人から唐物と言われる輸入品を強制的に買い上げる権限を持っていた。
すると惟憲は、蔵人所の名を詐称してこの権限を行使して、欲しい物を手に入れた。
さらに彼は、1028年長元元年に周良史が来航したにも関わらず、京都への報告を怠っている。
つまり惟憲は朝廷には秘密で密貿易のような形で唐物を手に入れ、利潤を得ていたのである。
また彼は大隅守射殺事件に関係した平季基を脅して、賄賂をゆすり取るような悪事にも手を染めている。
そしてその惟憲が悪事を働く相棒に選んだのが、周良史だったのである。
周良史が簡単に関白・頼通に近付けたのも、惟憲という相棒がいたからである。
周良史は頼通に爵位を断られると、次には敦良親王(のちの後朱雀天皇)に謁見するなどして接近している。
周良史は中国へ帰ると、「日本国朝貢使」と名のって宋の皇帝に謁見を求めた。
この時は日本国の表章が添えられていなかったため、謁見には失敗している。
そのため以後周良史は、「日本国大宰府進貢使」という肩書きで活動している。
この肩書きも惟憲が、大宰帥の特権で周良史に名乗らせたといわれている。
藤原惟憲は在任中に、数々の汚職によって莫大な財産を手にした。
彼が任期を終えて帰京した時、すでに紫式部も道長も没していたと思われるが、彼はその莫大な財貨をすべて持ち帰った。
実資は「小右記」に「惟憲が大宰府から持ち帰った財宝は数を知らない。」
「日本国の宝を根こそぎ奪い取るような行為は、全く恥を忘れたかのようである。」と怒りを込めて記述している。
藤原道長やその妻・倫子、そして紫式部の縁故者にまで、そのツテをたどって悪事を働く悪徳貴族がいたのである。
都の宮中ではまだ華やかな平安文化が花開いていたが、日本という国の崩壊が地方では音もなく確実に始まっていたのである。
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