藤原伊周は、役職も上で年も若く将来を嘱望されながら、なぜ藤原道長の前に簡単に敗れ去ったのだろうか。


道長は嫡男の頼通が、天皇家所縁の姫君と結婚する時、「男は妻がらなり」と言い切っている。


このことからどうやら、伊周は道長に妻の家がらのために敗れ去ったようなのである。


伊周が道長に敗れ去った理由を、詳しく見ていこう。


村上天皇の第七皇子である具平親王から、娘隆姫女王を頼通の室にさせたいとの申し入れが道長にあった。


道長はこの高貴な姫と頼通の縁談を、飛び上がらんばかりに喜んだ。


そして、道長は「おそれ多い」と言いながらも「男は妻がらなり」と頼通に語った。


平安時代の歴史を綴った「栄花物語」には道長の喜びの様子とともに、なぜ彼が出世出来たのかの秘密が綴られている。


「男というものは、妻の家がらによって良くも悪くもなる」と道長は信じていた。


当時は「妻問婚」が主流で、道長はその利点をうまく利用したのである。


これが道長が若い時から守ってきた信念であり、嫡男の頼通にも引き継ぎたい遺言のようなものであった。


その言葉のとおり、道長自身も天皇家につながる貴族の二人の姫を妻とすることが出来たため、大出世を果たしてきた。


その姫君とは源倫子であり、もう一人が源明子である。


倫子は宇多天皇の曾孫で、明子は醍醐天皇の孫で、父親はともに左大臣を勤めた源雅信と源高明である。


特に源雅信は都でも豪華で有名な土御門邸に住んでいたため、倫子は通称を土御門の姫と呼ばれこの邸宅と莫大な財産を相続している。


倫子が道長と結婚したのは987年永延元年、倫子が24歳のときで、道長は倫子よりもふたつ年下の22歳であった。


道長は朝廷でもまだ下っ端だったが、父の兼家に頼むなどかなり強引に倫子と結婚している。


この結婚によって道長は、倫子が持つ広大な土御門邸と莫大な財産を共有することになる。


さらに一条天皇の母・東三条院詮子の力を借りて道長は、源明子とも結婚している。


そして道長は倫子と明子との間に、それぞれ6人づつの子どもをもうけている。


一方の藤原伊周は、源重光の娘と源致明の娘の二人を妻とした。


どちらの父親も凡庸で、伊周の出世のためのたいして後ろ楯となれるような人物ではなかった。


そのため伊周は、道長のように結婚によって莫大な財産を引き継ぐこともなかった。


また伊周は、故太政大臣藤原為光の娘三の君も妾としていた。


そのため花山法皇が四の君に通っているのに勘違いして矢を射ってしまった。


伊周は道長とは対照的に、女性への対応を誤って、身を滅ぼしたのである。


平安時代の貴族の結婚は、現代の結婚とは違い、妻のところに夫が通う「妻問婚」が主流である。


正妻となれば同居するが、その際も妻の家で暮らすケースが多かった。


道長も倫子と結婚すると、妻の実家が所有していた邸宅のひとつである土御門邸で、倫子とその家族とともに暮らしている。


のちに倫子の母親と兄弟は隣接する一条殿に移り、土御門邸は倫子と道長の本宅となっている。


道長はこの土御門邸に公卿たちを招き、庭の池に船を浮かべ接待した。


倫子は道長との間に2男4女をもうけ、そのうち3人の娘が天皇の后となっている。


また明子も四男二女と6人の子女を儲け、倫子ほどではないにしても政略結婚させ道長に寄与している。


明子の息子たちは頼宗の右大臣が最高位で、摂政となった倫子の長男・頼通とは開きがある。


また明子の娘たちも天皇に入内することはなかったが、それでも明子の子女は嫡兄・藤原頼通と協調している。


こうして道長は藤原氏の氏長者になるとともに、妻の閨閥を通じて源氏も味方に引き込んでいる。


若い伊周は、妹の定子が一条天皇の寵愛を一身に集めていることをいいことに、人脈づくりを怠った。


また伊周には二男二女の子どもがいたが、目立って活躍した者もいなかった。


そのため役職も高く将来を嘱望されていた伊周だが、花山法皇への不敬でピンチになると、誰も味方する者はいなかった。


妻問婚は平安時代中期まで継承されたが、道長が逝去する頃には時代は変化する。


時代は「妻問婚」から、「婿入婚」、そして「嫁入婚」と変化し、藤原氏の摂関政治もそれにともない衰退していくのである。


藤原道長は「妻問婚」という時代をうまく活用して、頭角を現したら人物だったのである。


【藤原伊周はなぜ道長に敗れたのか】ユーチューブ動画