藤原隆家は兄の伊周が没落して早世したのとは対象的に、平安時代最大の対外的危機である「刀伊の入寇」で活躍し日本を救った。


藤原隆家のその後を、詳しく見ていこう。


「長徳の変」で花山法皇に不敬を働いた隆家は出雲権守に、伊周は大宰権帥に左遷される。


この時隆家は、出雲国までは行かずに病気を理由に但馬国に留まっている。


998年長徳4年5月に東三条院詮子の病悩による大赦を受けて帰京し、隆家は兵部卿として官界に復帰している。


要領の良い隆家は、藤原道長と対立した兄・伊周とは対照的に、うまく関係を修復して1002年長保4年には以前の権中納言に復した。


さらに隆家は、流罪される以前よりも出世して従二位、中納言に叙任されている。


その間西暦1000年長保2年に姉の定子が、1010年寛弘7年には兄の伊周が没している。


隆家は定子が残した敦康親王の立太子に期待をかけたが、結局道長の孫の敦成親王が東宮に決定する。


隆家は兄・伊周の失敗を目の当たりにしていたため、あえて道長とは喧嘩しない道を選択している。


1012年長和元年頃に、隆家は怪我による眼病を患い、出仕も出来ない状態となった。


隆家は、大宰府に眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞き、大宰権帥への任官を望んだ。


実は大宰府の長官である大宰権帥は、中国との交易で莫大な資産を得ることが出来る、旨味のある役職であった。


そのため病気治療は口実で、兄の伊周が嫌がった大宰権帥を、賢明な隆家は希望したのかも知れない。


そのため道長は隆家が交易などで財力を蓄えることを恐れ、なかなか任官を認めなかった。


ところが同じく眼病に悩んでいた三条天皇の推薦を得た隆家は、1014年長和3年に大宰権帥に任ぜられている。


隆家は大宰府の長官として、善政を行ったために、九州の古くからの豪族たちはすっかり彼に心服したという。


隆家が任期中の1019年寛仁3年3月28日、対馬から賊船50隻、賊約3000人の襲撃を受けたと大宰府の隆家のもとに報告が入る。


このいわゆる「刀伊の入寇」では、対馬で約350人の島民が連れ去られ、賊船はさらに壱岐を襲った。


壱岐では国司の藤原理忠をはじめ多くの人々が殺され、200人を越える女性が拉致されている。


賊船の動きはハヤブサのように素早く、4月7日には筑前国(現在の福岡県)に現れ唐津湾と博多湾の沿岸を荒らし回った。


賊は15mほどの船で海から来襲して、家に火をつけ、人や物を奪い、馬や牛、犬を殺して食べ、老人と子どもはすべて斬り殺した。


怯える男女4,5百人を追いかけて捕まえた賊は、人と穀物を船に積んで、拠点とした博多湾の能古島へ運び去った。


そのため隆家は大蔵種材ら有力武士を、警固所に配置して賊と対峙させている。


9日朝、博多に上陸した賊たちは、警固所や筥崎宮を襲撃するが、武士の活躍で撃退されている。


二日間ほど強風で能古島に賊が足止めされると、隆家は兵船を用意して精鋭を集め反撃の準備を整えた。


隆家はこの反撃を整える猶予を与えてくれた強風を「神明の所為か」と評している。


12日の夕方、賊船は糸島半島西部の志摩郡船越津に上陸したが、大神守宮らが防ぎ、大蔵種材らが兵船で追撃している。


賊船は本国である満州の女真に向けて逃げ帰りはじめたが、隆家は深追いしないように命じた。


そのため日本の兵船は対馬で留まって高麗との国境を越えなかった。


隆家は、戦闘で生け捕った3人を取り調べると、女真の刀伊賊と戦ったが逆に捕獲された高麗人であることが判明した。


女真の刀伊賊とは、朝鮮半島北方に居住するツングース系の人々である。


女真の刀伊賊は、たびたび高麗の沿岸部を襲撃し略奪を繰り返していた。


今回はその一部が、日本の九州北部に来襲したのである。


この「刀伊の入寇」で日本が被った被害は死者374人、拉致1280人、屠殺された牛馬は199頭にのぼっている。


特に壱岐では、事件後に島に残っていたのは500人ほどいた島民が、わずか35人になっていたという。


日本に撃退された賊船は、高麗国で待ち構えていた兵船に拿捕され、拉致されていた日本人も多くが救出されている。


総指揮官として九州の武士たちを率いて賊船を撃退した藤原隆家の名声は、都にも鳴り響いた。


隆家は同年12月に大宰権帥を辞し、後任を藤原行成に任せて都に凱旋している。


帰京後の朝廷において、刀伊を撃退したことに対する功績により隆家の大臣・大納言への登用を求める声もあった。


しかし、賢明で用心深い隆家は、再び道長と争うことを避け、帰京後は内裏出仕を控え、あえて昇進するのを避けている。


1023年治安3年、隆家は次男の経輔を右中弁に昇任させる代わりに中納言を辞退している。


兄・伊周の失敗を他山の石にして、出る杭は打たれるという信念を隆家は生涯守り続けたのである。


その後、隆家は大蔵卿などを務めるが、後朱雀朝の1037年長暦元年藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられ、1043年長久3年までこれを務めた。


1044年長久5年1月1日、藤原隆家は思い出深い九州の地で65歳で逝去している。


隆家の死後、彼の活躍によってその子孫は皇室につながるなど繁栄している。


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