清少納言は、藤原道長と通じていると疑われて、定子のもとを一時的に追われていた時期があった。


清少納言のその後を詳しく見ていこう。


「長徳の変」で藤原伊周と隆家が流罪となり、中関白家は没落し藤原道長が最高権力者となった。


清少納言は以前から、道長の言動や立ち振舞いから、道長の人格を見抜き尊敬していた。


そして彼女の道長への傾倒ぶりは、定子に仕える女房たちの間でも有名であった。


また清少納言は道長の側近藤原斉信とはいい仲となって浮き名を流し、藤原行成とも日頃から親しくしていた。


そのため中関白家が没落すると、たちまち定子付きの女房たちは清少納言が道長と通じていると騒ぎ立てた。


定子のもとを追われ、しばらく実家に引きこもっていたが、彼女が「枕草子」の執筆を開始したのはこの頃だと言われている。


清少納言の手元には、以前に中宮定子からもらった紙がたくさんあった。


ある時、兄の伊周から当時は貴重な紙を多量にもらった定子は、清少納言に何に使うかを相談した。


「この紙に何を書いたらよいかしら。帝は『史記』という書物をお書きになられていますわ」


これに対して、清少納言は『史記』から「敷き布団」を連想して「敷き布団といえば……」「枕でございましょう」と答えた。


定子は清少納言の、紙を何に使うかの答えが「枕にする」という、とんちがとても気に入った。


そして定子は「それでは、この草子を枕にするというそなたにあげましょう」と清少納言は多量の紙をもらうことになった。


そのため彼女は「枕草子」という題名で、定子からもらった紙に随筆などを書き始めた。


また清少納言は以前に定子との雑談で、生きているのがいやになった時はどうするかという話をしたことがあった。


清少納言は、紙と筆さえあれば嫌なことは忘れられると答えた。


すると定子は、うらやましそうに「随分と安上がりな解消法だ」と笑ったことがあった。


定子はその時のことを覚えていて、清少納言に紙を与えたのである。


定子は里帰りしている清少納言が心配になり、親しい源経房に頼んで彼女の様子を見てきて欲しいと頼んだ。


源経房は、源高明の子息で、道長の妻・明子の弟だが、以前から定子や清少納言とは親しくしていた。


経房は道長の猶子となって順調に出世を重ねていたが、気さくな人柄でライバルの中関白家の人々とも親しかった。


のちに伊周は定子が産み残した敦康親王を、経房を通じて彰子に託している。


経房は清少納言を訪れた際に「枕草子」を読んで、これは世に出すべきだと一部を定子のもとに持ち帰った。


そして経房が持ち帰った「枕草子」は、たちまち宮中で評判となった。


清少納言は、996年長徳2年の夏から秋にかけて定子のもとを去り、里帰りしていた。


宮中に復帰した彼女は、定子を励ます意味もあって「枕草子」を意欲的に書き始めた。


ところで清少納言はなぜ当時流行の歌集や物語ではなく、随筆形式の「枕草子」を書いたのだろうか。


それには彼女の生まれた家系が、関係している。


夏の夜は  まだ宵ながら  明けぬるを 

雲のいづこに  月宿るらむ


これは清少納言の曾祖父・清原深養父の歌で、藤原定家が「小倉百人一首」に載録している。


清少納言の父の清原元輔が、和歌の名手で、曽祖父の清原深養父も「古今和歌集」に収録されたほどの代表的歌人であった。


彼女は和歌が、曾祖父や父ほど得意ではなかった。


そのため清少納言にとって、歌人の家柄に生まれたことが負担となり、定子が催す歌会にも顔を出さなかった。


定子は清少納言をたびたび歌会に誘ったが、かたくなに出席しなかったという。


随筆には長けていた清少納言だが、和歌については父や曽祖父達に気後れがあったようだ。


そのため清少納言は「枕草子」を、日記と随筆という自分の得意な分野の作品で埋めたのである。


ここに世界最古の「随筆文学」と呼ばれる分野が誕生した。


「枕草子」に随筆、エッセーは、全部で約300もあり、よく知られているのは、「ありがたきもの」、現代風にいえばめったにないものである。


「めったにないもの、舅にほめられる婿。また姑によく思われる嫁。主人の悪口を言わない使用人。」


現代人の我々でも、思わず共感できることがつずられている。


「にげなきもの」、似合わないものでは、「似合わないものは、身分の低い家の屋根に雪が美しく降り積もること。」


「年を取った女が大きなおなかを抱えて歩いていること。身分の低い女が、女官をまねて紅の袴をはいている姿」などがある。


毒舌すぎて、ちょっと共感しにくいことも含まれていて、清少納言の性格がよく現れている。


それでも主君・藤原定子のことは大好きで、「このような気品のある方がこの世にいらっしゃる」


たいへん素晴らしいなど、藤原定子の明るく華やかな姿を取り上げ、清少納言は尊敬の思いを綴っている。


紫式部の「源氏物語」が「もののあわれ」の文学と言われるのに対して、清少納言の「枕草子」は「をかし」の文学と言われる。


「枕草子」は「をかし」という形容詞が、最初から最後まで全文を通じて多量に使われているのである。


「をかし」とは面白いという意味のほかに、「心を引かれる」という意味もある。


父親や兄弟という後ろ楯を失くした定子は、やがて中宮でありなが落ちぶれていく。


一条天皇の皇子や皇女を産みながら、やがて誰からも注目されなくなってしまう。


清少納言は「枕草子」で、当初は「をかし」を普通に「面白い」という意味で使っていた。


ところが定子が落ちぶれてからは、「をかし」を「心が引かれる」という意味で使い出したのではないだろうか。


つまり同じ「をかし」という言葉でも時代とともにその意味が異なる。


「枕草子」の言葉の使い方から、清少納言がいかに中宮定子を慕い、気遣っていたかがわかるのである。


清少納言は「枕草子」を通じて、なんとか中宮定子の名誉を挽回して復活させようとした。


しかし彼女の努力も定子の死によって水泡に帰してしまう。


彼女は晩年、定子の墓の近くに住んで、菩提を弔ったと言われている。


一途な性格の清少納言は、最後まで定子一筋の人生を歩んだのである。


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