藤原斉信は藤原道長の親友で側近だが、平安京で襲撃されたり投石されるなど、記録に残っているだけでも、3度も災難に遭遇している。


当時の平安京は、名前とは裏腹に物騒で治安が悪い、とんでもない都だったのである。


藤原斉信の災難と当時の平安京の様子を、詳しく見ていこう。


今年も7月1日から、京都では平安時代から続く1200年近い歴史のある「祇園祭」が開催される。


「祇園祭」は平安京に疫病が蔓延したため、疫神怨霊を鎮める祭礼である御霊会が起源で,明治時代までは祇園御霊会と言われていたことは有名だ。


藤原道長や紫式部が活躍した時代の都も、天然痘やはしか、マラリアといった疫病が人々を苦しめていた。


さらに平安京には都を守る城壁とも言うべきものがなかったために、盗賊などが横行していたという。


そんな中、藤原斉信は最高権力者となった道長の右腕として活躍した。


藤原斉信は太政大臣・藤原為光の次男として、967年康保4年に生まれ、道長より一歳年下である。


斉信は道長と同い年の藤原公任とともに出世を重ね、道長が左大臣となると参議となって親友である道長を支えた。


斉信には「寝殿の上」と呼ばれた美しい妹がいたが、この為光の三女を藤原伊周が妾としたため、花山法皇とトラブルとなるのである。


996年長徳2年正月、花山法皇は四女の元に通うため為光邸を訪れた。


ところが伊周は、法皇が三女の「寝殿の上」のもとに通っていると早とちりをする。


そのため弟の隆家が、威嚇のために法皇の牛車に矢を射った。


ドラマではこの時斉信が、牛車ではなく法皇を狙って矢を射った、と証言したため伊周と隆家は流罪となったとしている。


実はこの事件には、平安貴族のとんでもない牛車に関する常識が関係していた。


それは当時は「大臣であっても、別の大臣の門前を牛車に乗ったまま通ってはいけない」という暗黙のルールがあった。


牛車から降りて通れば、別に問題はないのである。


そのため貴族の門前を、別の貴族が牛車に乗ったまま通れば襲撃されたり、投石されても仕方がなかったのである。


やんちゃで有名な藤原隆家は、以前から花山法皇に「きさまにわしの門前を牛車に乗ったまま通る勇気があるか」という挑発を何度も受けていた。


そのため隆家は、いつか法皇に仕返ししてやろうと手ぐすねをひいて待っていた。


ちょうどそんな時、兄伊周の愛人宅を花山法皇がお忍びで訪れたので、脅してやろうと矢を放ったのである。


結果的には隆家のこの行為で、伊周の中関白家が没落し、道長が最高権力者となるのである。


その後花山法皇と道長は良好な関係を続けるが、ひょっとすれば法皇と道長は共謀して伊周・隆家兄弟を陥れたと考えられなくもない。


それはともかく、実際隆家が牛車か法皇かどちらを狙ったのかは不明だが、斉信が出世に貪欲であったことは確かである。


斉信が自分の出世のために妹たちを利用したり、親友の道長に有利な証言をすることは十分にあり得ることだ。


そんな要領のいい藤原斉信であったために、恨まれることも多かったのか、たびたび襲撃されたり投石されたりしている。


藤原実資は「小右記」に当時起こった事件を詳細に記録しているが、斉信の名前がたびたび登場する。


当時の貴族たちは治安の悪い平安京で暮らすために、屈強で一癖も二癖もある従者を数多く雇った。


特に花山法皇の従者には「頼勢」という札付きの悪党がいたが、いつも高い帽子をかぶっていることから「高帽頼勢」と呼ばれ恐れられていた。


一方都の治安は検非違使が担当していたが、朝廷も資金難で人数不足であった。


そのため検非違使は「放免」と呼ばれる人間を採用して犯罪の取り締まりに当たらせていた。


「放免」とは文字通り罪人だが、犯罪の取り締まりに当たるために放免された人々のことである。


そのため「放免」は犯罪者よりも人相が悪く、乱暴な者も多かったという。


伊周が求刑に従わず中宮定子のもとに逃れた時、捜査に当たったのが検非違使別当の藤原実資と放免たちであった。


中宮定子に付き従う女房たちは、放免たちの姿を見て気絶せんばかりに震え上がったという記録が残されている。


伊周たちが流罪された翌年の997年長徳3年4月16日、実資の「小右記」には斉信が花山院の従者に襲われた時の記録が次のように残されている。


左大臣の道長と打ち合わせを終えた斉信は、藤原公任と牛車に同乗して土御門邸を出て花山院の門前に差し掛かった。


斉信たちが牛車を降りて通れば問題はなかったが、やはりそこに最高権力者の側近というおごりがあったのか、そのまま通り過ぎようとした。


すると花山院から数十人の武器をもった「高帽頼勢」たち従者が飛び出して来て、斉信たちが乗る牛車を取り囲んだ。


「高帽頼勢」たち花山院の従者は投石だけではなく、斉信たちの従者と牛使いたちを監禁して長時間に渡って暴力をふるった。


その間斉信と公任は、投石が続く牛車の中で、生きた心地もせずに数時間も恐怖に耐えたのである。


幸いにも斉信と公任には、怪我はなかったようである。


しかしこの事件を聞いた一条天皇は、さすがに法皇の従者とはいえあまりの傍若無人な花山院の「高帽頼勢」たち従者を捕縛するよう命じている。


そのため翌日には検非違使の「放免」たちが、花山法皇が乗っている牛車を目指して出動した。


するとさすがの花山院の従者たちも、検非違使の「放免」たちにはかなわないと見たのか、クモの子を散らすように逃げ去ったという。


牛車に乗ったまま取り残された花山法皇は、あわれにも検非違使の放免たちに花山院まで送り届けられている。


結局花山院の従者たちはその夜、花山院を取り囲んだ検非違使「放免」たちによって取り押さえられている。


清少納言とも浮き名を流した藤原斉信だが、その後も襲撃や投石にあい、記録に残っているだけでも三度も災難に遭遇している。


それでも財力のある貴族たちは、自分の身を守るために従者を多く雇ったりも出来た。


しかし貧しい貴族や庶民たちは、身を守るすべがなかった。


華やかな平安文化は、多くの貧しい庶民の犠牲の上に成り立っていたのである。


貴族としては貧しい家庭に育った紫式部は、華やかな宮廷生活を「源氏物語」で描いた。


彼女が書いた「源氏物語」は、一条天皇をはじめ多くの貴族たちにもてはやされた。


しかし紫式部は、テーマである「もののあわれ」を通して、貴族の夢のような世界は長くは続かないことを実は物語の中で暗示していたのである。


【藤原斉信の三度の災難】ユーチューブ動画