そのため三条天皇は5年あまりで道長の孫・後一条天皇に譲位するが、そのあとも病に苦しんだ。
三条天皇の生涯と最期を、詳しく見ていこう。
三条天皇は冷泉天皇と藤原兼家の長女超子との間に976年天延4年に生まれ、諱は居貞であった。
居貞親王が生まれた時、父は退位して上皇になってから7年がたっていた。
そのため4歳年下の一条天皇が先に天皇に即位すると、兼家の強い要望で年上だが居貞親王が皇太子となっている。
居貞親王は幼少から病弱であったが、皇太子時代にも様々なエピソードが残されている。
居貞親王は道長の異母妹の綏子を女御にしていた。
ところが綏子は、村上天皇の孫で居貞の従兄弟である源頼定と不倫を繰り返すのである。
そして綏子は、頼定の子どもを身ごもったという噂が広まってしまう。
居貞親王から相談を受けた左大臣の道長は、綏子のもとを訪れ事実かどうかを詰問する。
しかしなかなか口を割らない綏子にしびれを切らした道長は、突然着物のえりの間に手を差し込み乳房をつかんだ。
すると母乳が道長の顔にかかったため、綏子が懐妊していることがわかったという。
もちろん綏子は実家へ返されたが、居貞親王は皇太子時代から話題に事欠かない人物であった。
1011年寛弘8年、一条天皇が31歳で崩御すると、35歳になっていた居貞親王が三条天皇として即位する。
三条天皇に輿入れしていた道長の次女・妍子が即位の翌年に禎子内親王を出産する。
しかし三条天皇には10年来連れ添った右大臣藤原済時の娘・娍子がいて、すでに4人の親王と二人の内親王をもうけていた。
そのため道長が妍子を中宮としようとすると、三条天皇は娍子を中宮にして抵抗する。
結局最終的には一条天皇の時と同じように、娍子を皇后に押し上げ、妍子を中宮にすることになる。
皇后娍子の立后式の日に、道長は中宮妍子の初参内を行ったため、立后式には藤原実資を含め5人しかし参加しなかった。
立后式に参加しないことに腹を立てた三条天皇が、中宮のもとに集った公卿たちに使者を送ると、公卿たちは天皇の使者になんと石を投げつけという。
この時点で、天皇の権威は失墜し、道長の権勢は天皇をもはるかに越えていたのである。
三条天皇の時代も疫病がはびこり、平安京の治安も悪化し、内裏も安全な場所ではなかった。
中宮の宮殿に賊が入り、捕らえて見ればなんと穀倉院に勤める蔵人であった。
そして犯人の妻は命婦として中宮に仕えており、夫を手引きしていたのである。
また三条天皇の第一皇子である敦明親王の名を語り、国司の邸宅を回って米や絹などを騙しとる詐欺なども横行した。
そのため天皇に見切りを着けた道長は、三条天皇に病弱を理由に退位を迫った。
三条天皇は皇太子時代から病弱で、視力も年ごとに弱っていた。
実資の「小右記」によると天皇の病気は全身の病弱とあり、はっきりした病名はわからない。
どうやら天皇は、物の怪にもとりつかれていたようである。
しかし三条天皇は、意地からでも道長には負けたくないと、健康になるために色々と努力している。
病魔退散を念じて天皇は、陰陽師などの祈禱や修法を盛んにうけた。
また三条天皇は、インド原産のカリロクの木の実を服用し、抜歯までおこなったがはかばかしくなかった。
カリロクの実は芳香、薬効があったことから実の形を模して紐や袋で飾り、「邪気を祓う道具」として珍重されていた。
その間、左大臣の道長は病気に苦しむ天皇を横目で見ながら、少しも助けようとしなかった。
道長の思いは一刻も早く自分の娘・彰子が生んだ敦成親王をつぎの天皇の座につけようとしていた。
そして道長の思いを察したほとんどの臣下たちも、道長を見習って天皇を支えようとしなかった。
天皇は実資に「自分のからだの具合がよいと左大臣の道長のきげんが悪くなる」と嘆いたという。
三条天皇は1013年長和2年ごろに、ストレスから炎症性緑内障を患ったと考えられる。
この病気は睡眠不足や過労から、眼圧が亢進して視力が低下して、ひどい時には失明する。
三条天皇は突発性難聴も引きおこして、目も耳も不自由となったために、公務を遂行出来なくなる。
そのため天皇は、道長に「自分の子である敦明親王を皇太子にする」という条件を飲ませて、退位を決意する。
三条天皇は1016年長和5年、道長の孫後一条天皇に譲位して上皇となっている。
歴史物語の「大鏡」には「上皇は目がみえなくなったが、外見は普通の人と少し もかわりがなかった。」
「瞳も大変清らかで、目が悪いなどとは嘘のようだ」と三条天皇の様子が記述されている。
これ は緑内障の特徴であって、自他ともに気づかずにいるうちに病気が進行するからである。
現代人の我々も、物がみえづらいとか灯火のまわりに虹のような光輪がみえたりしたら気をつけねばならない。
譲位した翌年、三条上皇は悲嘆のうちに、42年の生涯を閉じている。
しかし三条上皇が崩御した3ヶ月後、道長は敦明親王に圧力をかけ、皇太子を辞退させている。
そのため道長の孫の敦良親王が、皇太子となるのである。
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