藤原顕光は、娘の元子と延子を天皇と皇太子に嫁がせたが、藤原道長に阻まれ天皇の外舅にも、外祖父にもなれなかった。


そのため顕光と娘たちは、死んでからは悪霊となって道長一家を祟った。


藤原顕光と娘たちのその後を、詳しく見ていこう。


藤原顕光は藤原道長とは従兄弟同士だが、20歳ほど年長であった。


顕光は道長の父・兼家の兄兼通の長男で、凡庸であったが父親が関白として健在な時は出世を重ねていた。


ところが父・兼通が死去し、権力を握った兼家に出世を阻まれ、顕光は陽の目を見ない時代を十数年も過ごした。


長男であるにも関わらず、凡庸なうえに消極的でおとなしい顕光は、弟の朝光にも先を越されている。


ところが関白道隆が酒の飲み過ぎで逝去し、道兼や弟の朝光をはじめ多くの公卿たちが疫病で死んだため突然顕光にチャンスがめぐってきた。


道長は伊周との権力争いに勝利して左大臣になると、顕光を右大臣に指名するのである。


道長にしてみれば、適当な公卿がいないため、凡庸だが当たり障りのない顕光を選んだのである。


顕光は特別な才能は持ち合わせていなかったが、何事にも辛抱強く、恐ろしいほど自己肯定感の高い人間であった。


この頃の道長は、一つの大きな悩みをかかえていた。


一条天皇が死んだ兄・道隆の娘・定子のみを寵愛して、他の女性を側に近付けなかったからである。


また道隆は権力を独占するために、他の公卿たちが娘を入内させる事を禁じていた。


そのためもしも定子が天皇の皇子を産めば、中関白家が再び息を吹きかえし、伊周たちが復帰してくる。


そこで道長は顕光に、娘の元子を一条天皇のもとに入内させることをすすめた。


道長は父・兼家の弟の藤原公季にも、娘の義子の入内をすすめている。


こうしておけば、万一定子が男の子を生んだとしても、すぐに皇太子になることは防げると道長は考えたのである。


顕光たちは道長が、娘の入内を禁じた兄の道隆に比べて心の広い人物だと褒め称えた。


顕光の娘で18歳の元子は、996年長徳2年12月に、一歳年下の一条天皇の女御となった。


中宮定子はちょうどこの頃に一条天皇の子を生んだが、女の子(脩子内親王)であった。


翌年に天皇の子を懐妊したと元子から聞かされた顕光は、腰を抜かさんばかりに喜んだ。


997年長徳3年の暮れに、出産のために堀川の実家へ元子は退出する。


このとき退出する元子の姿を、もう一人の女御・藤原義子の女房達が群がり、御簾越しに見物していた。


すると元子の女童が簾がふくれているのを見て、「簾のみ孕みたるか」と言って嘲弄した。


そのため義子の女房達はこれを聞き、少女にまで馬鹿にされ悔し涙を流したという。


ところが翌年の6月になっても一向に、元子が出産する気配はなかった。


そして不思議なことに、元子の体内から水のみが出てきただけ、子どもは生まれなかった。


この出産の話は「栄華物語」にだけ載っている記事なので、真偽のほどは定かではない。


しかし顕光と元子父娘は天皇の子を授かることが出来ずに、内裏で大恥をかいたことだけは事実である。


やがて道長の娘・彰子が中宮となり、定子は一人の皇子と二人の皇女を生んだが逝去する。


彰子は、一条天皇の二人の皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)を生む。


そのため、元子が皇后になる夢も破れた。


しかしいつも自然体の顕光は、道長を支える右大臣として、ずっとナンバーツーの座に座り続けている。


顕光は姉が駄目なら妹を、とばかりに東宮・居貞親王の皇子・敦明に妹の延子を嫁がせるのである。


1011年寛弘8年、一条天皇が崩御すると、居貞親王(三条天皇)が即位する。


一条天皇が崩御すると、姉の元子は参議の源頼定と不倫をしたため、顕光から叱責されている。


源頼定は、三条天皇の東宮時代に、妃に手を出して妊娠させた名うてのプレーボーイだった。


それはともかく、三条天皇は病気がちのうえ、道長と折り合いが悪く、即位して数年で退位を決意する。


三条天皇は自分の皇子である敦明親王を皇太子にするという条件で、道長の孫・後一条天皇に譲位した。


このため顕光は、再びチャンスが訪れたため、晩年には左大臣にまで上りつめるが、権力の座にしがみついた。


皇太子の敦明親王が天皇になれば、延子は皇后となり、顕光は外舅となって権力を握ることが出来る。


70歳を過ぎて、やっとつかんだ幸運に、顕光は一人静かにほくそ笑んだに違いない。


ところがまたしても道長に、顕光のはかない夢は破られるのである。


道長は自分の孫の敦良親王を天皇にするために、皇太子の位を証明する壺切剣を敦明親王には、ずっと渡さなかった。


そのため三条上皇が崩御すると、敦明親王は 道長の嫌がらせに耐えきれず、日本史上では唯一、皇太子を返上して敦良親王に譲っている。


すると道長はなんと皇太子を自分の孫に譲ってくれたお礼に、自分の娘・寛子の婿に敦明親王を迎える。


そして敦明親王に、上皇待遇の「小一条院」という称号を与えている。


そのため延子は無惨なほどに嘆き悲しみ、衰弱している。


この一連の事件で、さすがの顕光も気が触れたのか、敦明と寛子の結婚を祝う宴が行われている道長邸にのこのこと現れ、参列者たちを恐れさせている。


その後に顕光は寝ている延子の髪の毛を切って、庭で道長を呪詛したという。


延子は敦明と寛子が結婚した翌年に、喀血して悲嘆のうちに死んでいる。


顕光は延子の屍を抱きかかえ、大声を出して泣き続けたという。


1021年治安元年5月、藤原顕光はその波乱に満ちた78年間の生涯を閉じている。


しかしその後、顕光と延子の父娘は怨霊となって、道長一家に祟りはじめる。


先ずは道長の娘・寛子が病となったため、道長が見舞いに行く。


すると寛子に取りついた怨霊が、道長を散々罵って寛子は悶死している。


また道長の娘で、敦良親王の女御となった嬉子も悪霊に取りつかれて頓死している。


さらに三条院の皇后となって、道長の娘達の中でも特に美しと言われた妍子も亡くなっている。


そのため道長も顕光と延子の怨霊に悩まされ続けたという。


生前はあまり目立たずおとなしい藤原顕光であったが、死んでからは悪霊となって時の最高権力者にまで恐れられやっとその存在感を示したのである。


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