藤原宣孝は越前の紫式部に、「来年には大陸から来た人を見にそちらへ行くから」と手紙を寄越した。


しかし彼女は彼のいつもの戯言だと相手にしなかったが、なぜか徐々に紫式部は宣孝に引かれていくのである。


藤原宣孝と紫式部のその後を、詳しく見ていこう。


藤原宣孝は994年正暦5年に、筑紫守の任期を終えて帰京すると、急に紫式部に求婚してきた。


宣孝は紫式部よりも20歳ほど年上で、しかもすでに三人の妻と多くの子供がいた。


そのため当初は彼女も取り合なかったが、宣孝はしつこく何度も迫ったようである。


二年後の996年長徳2年夏、24歳となった紫式部は、十年ぶりに官職を得て越前守となった父藤原為時に随行する。


しつこく求婚してくる宣孝と距離をおく意味もあって、彼女は越前へと旅立った。


紫式部は、越前の松原客館に滞在する宋の商人たちと国司として交渉にあたる為時を助けた。


すると宣孝は彼女に「来年には宋の商人を見にそちらへ行くから」と手紙を寄越してくる。


内裏の警備の責任者である宣孝が、越前へ来る暇などないはずなのに、そんな手紙をぬけぬけと寄越した。


紫式部ははじめは、年が離れた妻子持ちの宣孝との結婚などは想像もしなかった。


しかし宣孝と接するうちに、彼は年を感じさせない行動力があり、とても包容力があることに気づいた。


20代半ばを迎えた自分を冷静に見つめた彼女は、年上の男性と結婚するのも悪くないと次第におもいはじめる。


宣隆は朱色を垂らした紙に「きみを思って血の涙を流している」といった手紙を送ってくる無邪気な男性であった。


世間体や常識にとらわれない宣孝の生き方を見て、自分にはない魅力を紫式部は彼の中に感じはじめていた。


彼女は越前に来て二年目春、ついに父為時を置いて単身帰京して結婚する決意を固めた。


紫式部は帰京した翌年、26歳の頃に宣孝と結婚している。


結婚といっても当時は通い婚が主流で、彼女の実家に宣孝が通うというスタイルで新婚生活がスタートしている。


内裏の北西にある鴨川沿いの実家に紫式部は、弟の惟規や、叔父の藤原為頼一家と同居したようである。


叔父の為頼も有名な歌人で、勅撰歌人として「拾遺和歌集」などにも多くの歌を残している。



紫式部は宣孝と結婚した翌年に、長女の賢子(のちの大弐三位)を産んでいる。


新婚生活はそれなりに楽しかったようだが、少々軽薄な宣孝の行動が元で夫婦喧嘩もしている。


引っ込み思案な父為時に比べて、夫の宣孝は社交的で何事にも積極的であった。


紫式部が見事な和歌や手紙を書くことは、都の一部ですでにかなり評判となっていたようである。


そのため、宣孝は彼女からの恋文を、仕事仲間に見せびらかして自慢していたのである。


侍女がその噂を聞き付けて来て知った紫式部は、激怒した。


「送った手紙を全部返さなければ、今後はいっさい手紙を書かない」とまで彼女は宣孝に伝えた。


宣孝にしてみれば、素晴らしい内容の手紙を自慢したいという軽い気持ちで、友人にみせたのである。


ところが紫式部にしてみれば、大事に暖めてきた二人の愛を、他人には見せずに最後まで秘密にしておきたかった。


二人は手紙で激しい夫婦喧嘩を繰り広げたが、宣孝が謝ることによって決着している。


宣孝と紫式部は、喧嘩をするときは激しいが、それ以外は仲の良い夫婦であった。




宣孝は役所の仕事と山城守を兼務していたが、賀茂臨時祭では神楽舞の長にも選ばれるという多忙さであった。


宣孝は藤原道長からその有能さを認められ、九州の宇佐八幡宮への名誉ある使いとして宇佐へも赴いている。


九州から戻った宣孝は、当初は足繁く紫式部のもとに通っていたが、やがて浮気性のためなのか次第に遠退いてゆく。


その頃、都では疫病が流行り、路上にも死者があふれるほどであった。


そんな折に紫式部は、宣孝が病気らしいと伝え聞いた。


そして1001年長保3年の4月の終わり頃に、紫式部は「宣孝が4月25日に亡くなり、明日葬送を行う」という連絡を受けとるのである。


当時の葬送は夜中に行われたが、紫式部は鳥部野に向かう宣孝の葬列を、鴨川の堤のあたりから見送ったと言われている。


紫式部と藤原宣孝の結婚生活は、娘の賢子は残ったが、わずか二年あまりであっけなく終わってしまった。


紫式部はこの宣孝の死をきっかけに、「源氏物語」を書き始めるのである。

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