唐人70人が乗った商船が若狭湾に流れついたため、越前守となった藤原為時と紫式部はその対応に追われた。


唐人漂着と紫式部らの対応を、詳しく見ていこう。


995年長徳元年、文化交流や交易のため唐人70人余りを乗せた商船が若狭国へ流れ着いた。


平安時代初期、唐の国力が衰えたため、菅原道真の意見で日本は遣唐使を中止していた。


唐が滅び10世紀半ばに中国が統一され宋に、朝鮮には高麗が誕生する。


宋と高麗の商人たちは日本に交易を求め、多くの商船が日本各地に漂着した。


そのため若狭国にたどり着いたのは唐人ではなく、正しくは宋人である。


彼らは交易を求めたが、まだ政権について数ヶ月の藤原道長は貿易を大宰府に限定していたため、宋人たちを越前に設置していた松原客館へ移した。


その一方で道長は、越前守に源国盛に代えて漢文に熟達した藤原為時を任命している。


かわいそうなのは国盛で、彼はショックのあまり播磨守に任命されたが赴任することなく、その年の秋に他界している。


それはともかく、紫式部は藤原宣孝から求婚されていたが、父為時とともに翌996年長徳2年の夏に越前へと旅立っている。


この時、都では藤原伊周と隆家が花山法皇に矢を射るというとんでもない事件を起している。


為時と紫式部一行は越前に赴任するなり松原客館を訪れ、宋人たちと面談している。


宋人たちは、朱仁聡や林庭幹というリーダーに率いられていたが、8ヶ月以上松原客館に据え置かれていたため苛立っていた。


為時と紫式部は、筆談で彼らと交流を重ねている。


ドラマでは紫式部が、宋の見習い医師の周明と出会い、交流を深めるという架空のストーリーが盛り込まれている。


また歴史物語「今鏡」には為時が赴任中、現地で宋人と漢詩を贈り合った記録が残っている。


しかし松原客館については、「門は閉じ、役人はおらず、暖を取る薪もない」状態だったとあることから、あまり待遇はよくなかったようである。


そのため為時が赴任して約二ヶ月後、苛立った一部の宋人が、勝手に上京する。


そして彼らは朝廷に直接、オウムやガチョウ、羊など当時としては珍獣を献上するという事件が勃発している。


ドラマに登場するオウムは、おそらくこの時に献上されたものだと思われる。


為時と紫式部は、松原客館での宋人の待遇改善に奔走している。


松原客館は、もとは渤海の使節団を迎えるために現在の敦賀市に建設された迎賓・宿泊施設であった。


しかしこの松原客館が敦賀市のどのあたりにあったかは、現在でも不明で調査が続けられている。


ところでのちに紫式部はこの時の経験を生かし、「源氏物語」で高麗人を登場させ、物語に国際性を盛り込んでいる。


為時と紫式部は一行の中に羌世昌という才人がいたため、漢詩文を交換しながら友好を深めた。


997年長徳3年には、高麗から国際的に同格の関係をあらわす文書である牒状が朝廷にもたらされた。


牒状は石見国に漂着した高麗人を、食糧を与えて送還した役人が持ち帰ったのである。


そしてその内容は、日本に以前のような交易を求めたものであったが、にわかに「高麗が攻めてくる」という噂が広まった。


朝廷では道長を中心に陣定で協議されたが、会議では高麗のバックに宋国がいるとの認識も示された。


そのため越前の宋人たちを早急に送還し、要害の警護を固めることなどが話合われたが、対策は極めて表面的で一時的なものであった。


遣唐使を中止して長く貿易をしていなかったため、朝廷は国際情勢の変化に疎かったのである。


 


そしてこの年の秋には、大宰府から海賊が九州に襲って来た、との報告が饗宴中の朝廷にもたらされた。


「高麗の襲撃」だと早とちりした道長ら高官が、一時は騒然となってあわてふためいた。


これはのちに奄美地方の海賊が、九州各地で強奪を行ったのだと判明した。


藤原実資は道長らが、狼狽した姿を「小右記」で見苦しいと批判している。


しかし「高麗や宋が襲って来る」という噂は、ますます庶民の間にも広まった。


そのため朝廷は、各地の要害を固めるとともに、神仏への祈祷をすることを命じている。


そして越前の宋人たちも、送還されたと思われるが、朝廷が行った消極的な政策のために、ますます南蛮人たちの九州などへの襲撃が増加する。


この背景には、中国では7世紀頃に、黒色火薬が発明されていた。


しかし中国大陸では火山がほとんど無いので、 天然の硫黄は手に入らなかった。


ところが火山国で地震国の日本には硫黄が山のようにあった。



宋や高麗が日本に交易を求めたのには、このような背景があった。


実際に海賊の九州襲撃のバックには高麗や宋が加担していたにも関わらず、国際情勢に疎い朝廷は、そのまま放置した。


そのため二十数年後には「刀伊の入寇」で壱岐対馬が襲撃され、大きな被害が出ることになる。


しかし朝廷では依然として、国際情勢を無視した内向きの平安貴族たちが雅な宮中生活を満喫していた。


その後、日本に武士が台頭して来るのには、このような国際情勢の変化も関係していたのである。


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